たばこをくわえた男性写真はイメージです Photo:PIXTA

人に笑われても夢を追い続けるべきなのか。それとも、まわりからの賞賛を得るために名声を求めるべきなのか。誰もが一度は考えるこの問いに、2000年前のストア哲学者たちは明快な答えを残していた。自由に生きるためには、どちらを選べばいいのか?※本稿は、ウィリアム・B・アーヴァイン著、竹内和世訳『ストイシズム:何事にも動じない「無敵の心」のつくり方』(白揚社)の一部を抜粋・編集したものです。

名声を求めるほど
人の顔色をうかがう人生に

 人びとが間違って追い求めるもののひとつが名声である。

 名声にも程度がいろいろある。世界中に名をとどろかせたいと願う者もいれば、国や地域での名声を求める者もいる。べつだん地域的な名声は求めないにせよ、仲間うちで人気を博したいとか、職場のなかで認められたいと思う者もいる。そしてほぼ全員が、友人や隣人から賛嘆してもらいたがる。

 彼らは名声(非常に広い意味での)が手に入れば、幸せになれると確信している。求めるものが世界的名声だろうと隣人からの賛嘆だろうと、そこには代償がつきものなのだが、彼らにはそれが分からない。

 だがストイック(編集部注/ストア哲学の信奉者。ストア哲学とは、紀元前3世紀初めの古代ギリシャで、ゼノンによって始められたヘレニズム哲学の一学派。自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説く)によれば、その代償はきわめて大きく、名声そのものがもたらすどんな利益をも超えているのだ。

 名声の代償とはどんなものか。エピクテトス(編集部注/古代哲学者。奴隷の身でストア哲学を学び、解放され自由人となると、哲学の学校を開いた)があげる次の例を考えてみよう。

 社会の名士になることがあなたの目標だとする。あなたが属する社会集団のなかで「有名」になることをめざすわけだ。

 あるとき仲間のだれかが宴会を開く。このとき招かれなかったら、あなたは(名声を求めた)代償を支払うことになる。冷遇されたあなたはひどく傷つくからだ。