
「2025大阪・関西万博」が閉幕した。振り返れば1970年に大阪の千里丘陵で開催された「日本万国博覧会」、公式略称「EXPO'70」は延べ6421万8770人もの来訪者数を記録し閉幕した。大成功を下支えしたのが、大量高速輸送能力に優れた「鉄道」の進化だ。その一端を紹介していこう。※本稿は、松本典久『鉄道と万博』(交通新聞社)の一部を抜粋・編集したものです。
新幹線「ひかり」は“動くパビリオン”
東海道新幹線の大阪万博(本稿ではEXPO'70を指す)に向けた対策準備は、1968(昭和43)年ごろから始まった。この年の10月には国鉄始まって以来の空前絶後とされた“よん・さん・とお”こと国鉄ダイヤ全面大改正が実施されている。この完遂に全精力を注ぎ、その疲れを癒す間もなく作業に入ったのである。
この時、東海道新幹線では開業時の慣らしダイヤを経て1時間あたり「ひかり」3本、「こだま」3本の3-3ダイヤで運行されていた。編成はどちらも12両だった。
その輸送力増強策として、全列車を16両化する、または混雑時のみ一部列車を16両で運転するといった案が検討された。しかし、全列車の16両化は大きな車両新製が伴い、駅や車両基地の改修規模も莫大なものとなる。一部列車の16両化とした場合、車両新製の負担は少ないが、車両運用が難しくなる。
最終的に先述のように「ひかり」全列車を16両化、「こだま」の運転本数を1時間あたり3本から最大6本へと増発、最大で1時間あたり9本もの列車を運行する方法で対応することになった。増発「こだま」は季節列車あるいは臨時列車としての設定で、変則3-3(6)ダイヤとなるものだが、この手法であれば車両増備や車両基地改修の負担が減らせ、駅の改修も「ひかり」停車駅の東京・名古屋・京都・新大阪だけですむ。ちなみに東京駅ホームは当初から比較的長く造られていたが、それでも1両分ほど足らず、延長された。