なぜそれが気持ち悪いのかというと、新聞記者になる前、週刊誌記者や編集者をしていたときに感じていた「ジャーナリストの気持ち悪さ」と見事に繋がったからだ。

 これはあくまで私の個人的な感想として聞いてほしいのだが、「反権力」「中立公正」みたいなことを掲げていらっしゃるジャーナリストほど、「権威的」で「イデオロギーに凝り固まっている」ということがよくあるのだ。

 政治家や企業経営者を「偉そうだ」とボロカスに叩くくせに、自分自身は若手記者や編集者に威圧的に接してパワハラをする。「中立公正であれ」とお説教をするわりに、自分自身は特定の政治勢力に肩入れして学生運動のノリが抜けきらない。

 そして、たくさんのデータマンやら弟子に取材をさせて、自分はその情報をテレビで得意気に語ったり、大学教授になったり、「今度○○党から立候補します」とか言い出したりする。そういう「中立公正なジャーナリスト」を見るたびに、こんな言葉が喉から出かかっていた。

「実はあなたは“権力の監視”がしたいんじゃなくて、自分自身が権力者になりたいだけなんじゃないんですか?」

 このなんとも言えない気持ちの悪い構図が、先ほどの先輩記者の「権力を監視するには、自らも権力者にならないといけない」という言葉と丸かぶりだ。他人が権力者になることは許せないが、自分が権力者になることは問題ナシ、という人がこの世界にはたくさんいるのだ。

 さて、そこで想像していただきたい。

 マスコミや政治ジャーナリズムの中には一定数、自分自身を権力者と肩を並べる「特別な存在」だと思っている人たちがいる。

 そんな人々が、自分と政治信条の違う政治家、人間的に好きになれない政治家が、首相になるのを見たらどんな感情が湧き上がってくるだろうか。

「冗談じゃない、日本のためにも我々の特別な“力”によって首相になるのを阻止してやる」

 つまり、マスコミの中にいる一部の“権力者志向”の強い人たちは「監視だけ」では満足できず、自らも「政治プレイヤー」として政局・世論を動かそうとしてしまうのだ。

「なんでそんな余計なことを?」と首を傾げるだろうが、実はこれこそがジャーナリズムだという考え方が、120年以上前から続いている。