ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアー(1788~1860)は、著書『幸福について』の中で、人間の欲望について、「富は海水のようなもので、飲めば飲むほど喉が渇く。名声もこの点は同じである」と述べ、「あきらめを十分に用意することが、人生の旅支度をする際に何よりも重要だ」とも言っています。

 仏教を研究していたショーペンハウアーの考え方には、多分に仏教的な要素が見られます。

「あき(諦)らめる」という言葉は、辞書的には「断念する」「見込みがないと思う」という意味ですが、仏教的に考えれば、それは違います。

「あき(明)らめる」の「明」は「明らか」、「らめる」は「~させる」という意味があります。

 つまり、「あきらめる」とは「明らかにする」ということであり、何かを突き詰めていく過程で余分なものをそぎ落とし、本質を見極めることなのです。

 ショーペンハウアーが伝えたかったのは、「人間の欲望にはキリがなく、富や名声をいくら求めても満足することはない。だからこそあきらめ、本当に必要なものだけを見極めることが大事だ」ということではないでしょうか。

足りないものではなく
今あるものに目を向ける

 一方、古代ギリシャから古代ローマにかけて、禁欲主義を実践していた「ストア派」のうちの1人が、エピクテトス(50~135頃)という哲学者です。

 彼は奴隷として生まれましたが、後に解放され、哲学者として名を成しました。

 自由を奪われた環境で生きたエピクテトスは、そのような状況でも幸福を感じる方法を考え抜きました。エピクテトスは、古代ローマの宴会を例に挙げてこういいます。

「まだ来ない、遠方から欲求を投げかけるな、いや、きみのところへ来るまで待つがいい」と。

 宴会では料理が順番に運ばれてくるものであり、遠くにあるお肉が欲しいと思っても、すぐには手に入りません。

 そんなとき、イライラするのではなく、目の前に来た野菜を食べて満足すべきだというわけです。

 エピクテトスが説いているのは、あきらめ、欲望をコントロールすることの大切さです。つまり、足りないものではなく、今あるものに目を向けることが大事だということです。