「人に使われるくらいなら…」雨清水家を“どん底”に導いた「タエ(北川景子)の潔さ」は本当に美学なのか?〈ばけばけ第30回〉

「うちはいまどん底だ」

 トキと三之丞が花田旅館の一室で密会。この部屋の窓が洒落(しゃれ)ている。

 トキはお茶とお団子を奢ろうとするが三之丞は遠慮し、結局頼んだのはお茶ひとつ。ひとり1品と厳密にしない平太(生瀬勝久)はぼったくる割には良心的だ。

 三之丞はトキの家に訪ねていったが、借金とりが来た日で立て込んでいたのでそのまま帰ったと話す。経済的に余裕がありそうだったらと思って頼ったが、無理と悟ったと。

「つまりうちはいまどん底だ」とぶっちゃける三之丞。工場と屋敷と家財を売って借金を返し、親戚に厄介になったが、そこも余裕がなく、長くはいられず、親戚を転々とし、結局松江に帰ってきた。タエが人に使われることを拒み、人に使われるくらいならと潔く物乞いとなった。そんなことに潔くならなくても、何か間違っている……と思うが、それが雨清水家なのだろう。

 三之丞は母ほど肝が据わっていないから、姉のトキを頼ったと推察できる。

 だがトキに「うちに来てごしなさい」と言われても、タエは一度手放した娘と世話してくれた養父母の世話にはならないだろうと言う。

 だからといって松野家には助けるお金はない。

 当てが外れ、冬が来る前になんとかしたいと力なく言う三之丞。凍死、あるいは餓死を覚悟している。確かに春、夏はあのあばら家でなんとかなっても、冬はやばい。『鳥取の布団』になってしまう。

 お金がないなら、狭くても松野家に世話になるのが得策だと凡人は思うが、そこがタエなのだろう。

 トキはまた、タエが物乞いをしている前を通りかかる。すると、今度は頭を下げていた。結局頭を下げることになるのなら、使われてもいいから働けばいいのに。

 いたたまれずトキはその場を駆け出す。何かを思いついたようだ。歩きながら、少しずつ、考えがまとまっていくように見える。でもその目の座り方はいいことを思いついたというわけではなさそうだ。高石あかりは表情を微妙に変化させていくのが巧い。