戦後もずっと、体当たりした「屠龍」の記憶が加藤の頭から消えることはなかった。

《その後、体当たりを行った戦闘機の操縦者の野辺軍曹の埼玉県のご遺族のお宅や菩提寺を訪ねました。野辺家には体当たりした戦闘機(屠龍)の破損したプロペラが保存され、折尾の方からいただいたと話されていました》

 北九州から埼玉にある野辺家の実家まで加藤は訪ねている。

 自分たちの命を護ってくれた野辺軍曹の遺族へ、北九州市民の1人として感謝の意を伝えたかったのだろう。

13歳の少年はB-29に
突っ込む姿に感動を覚えた

 また、芳賀康亘(執筆当時84歳)の目撃談にはこうある。

《昭和19年8月20日、この日、初めて空襲の現場を見ました。午後5時頃、未だ陽は高くあり裏庭で夕食のおかずにサバを焼いていた時でした。警戒警報が出たかと思うと、引き続き空襲警報が発令され、すぐにB29(アメリカ軍の爆撃機)の轟音が空に響き、巨体が姿を見せた途端、我等の戦闘機1機がスーッと巨体に突っ込むと閃光と同時に「ボーン」という爆発音が頭上でしたので、一瞬防空壕に逃げ込もうと思いました》

 北九州市民が、ちょうど夕食の準備を始めたころ。B-29の編隊は、この市民が家族団らんでくつろぐ時間帯に、あえて八幡製鉄所の官舎を狙って空襲を仕掛けたといわれている。

 軍需工場ではなく、市民の大量虐殺をはかって――。

 当時13歳だった芳賀の証言はこう続く。

《しかし空を見上げるとB29が2機墜落していくのを見て驚きました。体当たりして2機撃墜したことを悟りました。大きな翼が「ヒラッヒラッ」と夕陽に光りながら、落下して行くのを見ました。我が軍機は空中分解したのか再び勇姿を見ることができませんでしたがしばらく空を見あげて感動しました》

 13歳の少年にとって、この体当たりは大きな衝撃だったと想像できる。

「しばらく空を見あげて感動しました」と書かれた、この一文に、まだ少年だった芳賀の心に、体当たり(=特攻)によって自分たちの命を護ってくれた「屠龍」への感謝の思いが込められている。