体当たりがあった日の後、芳賀たち学校の生徒は教師とともに遺品や機体の破片などを確認するために落下現場へ向かったという。

 芳賀は機体の一部と思われる金属の小さな破片1枚を拾ったが、教師からは、「発見物は持ち帰ってはならない。絶対、口外してはならない」と命じられたという。

負傷した米兵の命を
1人で守った16歳の少年

 この「屠龍」の“体当たり”については、さらに続きがあった。体当たり後に起きた壮絶な光景をつぶさに見ていた1人の少年の体験談が、同じこの証言集のなかに収録されている。

 タイトルは「落下傘降下米兵の顔と私」。証言者の名前は末永和典(執筆当時87歳)。

《71年前のお話になります。第3回目の空襲が昭和19年(1944年)8月20日、八幡を襲った時に撃墜されたB29(アメリカ軍の爆撃機)からアメリカ兵が落下傘で降りて来ました。「落下傘が落ちよるどー」という声で今の八幡西区穴生(現在のポリテクセンター)付近に行きました》

 落下傘で降下してきたのは、野辺軍曹操縦の「屠龍」の体当たりで撃墜されたB-29の搭乗員だ。加藤の証言に出てきた、落下傘で降下する5人の米搭乗員のうちの1人と思われる。

 当時、16歳だった末永は、その現場へと走って向かった。

《そのうち近所の人達がどんどんどんどんつるはしや鎌を手にふりかざして、「自分の子供を殺した鬼畜米兵。」とか「お父さんを殺した憎い米兵。」とか口々に叫びながら何百人と集まってきたので、私達はスクラムを組んでアメリカ兵を守ろうとしました。

 しかし、危ないので1人減り2人減りで気が付いたら自分が最後の1人になっていました。みなに「止めっ。」と言って米兵に抱き付きました。気付くと学生服にアメリカ兵の血がにじんでいました》

 執拗に続いたB-29の空襲で家族を殺された北九州市民たちが米搭乗員に復讐するために集まってきていたのだ。

 怒りで平常心を失った群衆がパニック状態に陥るなか、末永少年は1人、米兵の命を護りたい一心で、市民に取り囲まれて脅える米兵の身に覆いかぶさったのだった。

 自分の身を犠牲にして……。