しかし、一方で、日本経済をドッジ不況が襲い、激しい人員整理で、国鉄では3大謀略事件(編集部注/1949年に国鉄内の共産党細胞が関与したとされる「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」)が起きている。
日本の復興を最優先するあまり
競争相手と殴り合う事件を起こす
次郎は、ドッジの超緊縮財政に反対はしなかったが、側近であった永山時雄は「ドッジ野郎め」と次郎が舌打ちするのを聞いている。緊縮財政と為替レートの固定化は激しいインフレの抑制と貿易産業の振興には必要だが、それに伴う痛みも大きいことを次郎はわかっていた。それが舌打ちに出たのだ。
だからこそ、次郎は日本の復興を急いだ。早ければ早いほど、犠牲は少なくて済む。そういう思いだった。資金が抑えられている以上、外資に頼るしかない。次郎には、それを調達できる人脈があった。売国奴と言われようが、日本の復興が先だ、そんな思いが次郎にはあった。
そんなとき起こったのが、銀座エスポワール事件だった。旧日本製鉄の広畑製鉄所の売却をめぐって、後に富士製鐵社長を務める永野重雄と、ジャーディン・マセソンとの合弁による買収を進めようとする次郎が対立したのだ。
広畑製鉄所は、日産1千万トンの高炉2基を持つ最新鋭で、もともと所有していた富士製鐵に返還されると見られていた。富士製鐵はGHQの集中排除命令で日本製鉄が4分割されたうちの1つである。
『知れば知るほど泣ける白洲次郎』(別冊宝島編集部、宝島社)
永野は「広畑を取れなければ腹を切る」とまで言って広畑製鉄所の獲得に命をかけた。そして、ギリギリで広畑製鉄所は永野の手に落ちた。
そんな事があった後、次郎は銀座の老舗クラブ『エスポワール』で永野と偶然鉢合わせしまった。次郎は永野を見た瞬間、「人の仕事をじゃましやがって」と怒鳴りつけた。すると、永野も「この売国奴が」と大声をはりあげた。
広畑製鉄所を「日本経済の将来のため、絶対に必要だ。外資に売却してはならない」と思っていた永野からつい出た言葉だった。その言葉をかわきりに2人は殴り合いになった。
結局、最後は次郎が謝ったという。次郎自身は謝ったことを否定しているが、周りにはそのように見えた。次郎も売国奴と言われて忸怩たるものがあったのだろう。それでも、最後は折れた。次郎は売国奴ではないからだ。







