次郎にとってやるべきことは、大胆な組織改革であった。貿易振興による日本の発展、それを担える組織に商工省を変えない限り、日本に未来はない。そのためにも組織の名前を通商産業省(通産省)に変えた。貿易を意味する通商を先に持ってきた。

 貿易関連ということで通産省には外務省からも人員を迎え入れた。一方、不必要な人材もいる。永山は次郎の下で、通産省の組織作りのための法案作成と、人事に携わった。

 法案作成では、永山が次郎に「ご自分でなされないのですか」と聞くと、次郎は「法案など、おれにはつくれないよ」という。仮案を見せても、ほとんど生返事。永山に任せっきりだ。とことん永山を信用する。

 一方人事になると、泥は全部次郎が被った。幹部を切ることによる非難はすべて次郎が受けた。にもかかわらず、「こいつは、次に行くところはあるのか」と切った相手の今後のことを気にする。そんな次郎に永山はますます惹かれていった。

国際的ブローカーと呼ばれようと
一刻も早い復興のため走り続けた

 次郎はせっかちだった。日本の復興を1秒でも早く進めたかった。そのため外資の導入を積極的に図る。

 次郎を国際的ブローカーだと定義するものもいる。日本進出を目指す外資の総合コンサルタントであるともいう。

 そういう側面も確かにあった。明治初期に日本へ武器を売り込んだジャーディン・マセソン商会とのつながりもあったし、ロックフェラー(編集部注/米国の実業家で石油王と呼ばれた)ともつながりがあった。

 次郎は国際的人脈を持っていた。ドメスティックな人間から見れば、次郎は外資導入を図る売国奴に見えたであろう。

 しかし次郎は、そんなつもりはなかった。1949(昭和24)年5月25日、通商産業省が発足したが、その2カ月前にはGHQ財政経済顧問のジョセフ・ドッジが日本に超緊縮財政の予算案を押し付けてきていた。

 その前年の年末にマッカーサーが発表した日本の経済安定9原則(予算の均衡、徴税強化、資金貸出制限、賃金安定、物価統制、貿易改善、物資割当改善、増産、食糧集荷改善)を具体化したものだった。

 これによって各種補助金は削減され、企業への融資も抑えられた。さらに国鉄を筆頭に公共団体の人員整理も行われた。さらに、日本円の為替レートも1ドル=360円に固定された。これによって激しいインフレは抑えられ、輸出産業の基礎的指標がはっきりした。