吉田茂首相の側近として、戦後復興の中心人物であった白洲次郎。東北電力の会長になった後、国民に1秒でも早く電力供給できるよう戦った彼のエピソードを紹介しよう。※本稿は、別冊宝島編集部『知れば知るほど泣ける白洲次郎』(宝島社)の一部を抜粋・編集したものです。

GHQが求めた電力会社の分割に
白洲次郎も賛成だった

東京電力ホールディングス本社現在の東京電力ホールディングス本社 Photo:JIJI

 通産省を設立した白洲次郎に、次に待っていた仕事は東北電力の会長職だった。戦後の電気事業は発電と送電を日本発送電株式会社(日発)だけが担い、各需要者への配電を全国9ブロックの会社が担っていた。もちろん、実質的には日発が業界全体を仕切っていた。

 この日発と九配電会社は1948(昭和23)年2月にGHQから過度経済力集中排除法の指定を受け、再編成が望まれていた。しかし、歴代の内閣はGHQが望むような案を提出できず、第3次吉田内閣の課題となっていた。

 1949(昭和24)年9月27日、GHQ経済科学局のマーカット局長が電力再編の責任者として呼び寄せたオハイオ州の電力会社の社長のT・O・ケネディは、全国を7ないし10のブロックに分け、それぞれに発電から配電までを一括して行う民間会社を設立するという案を、通産省に示してきた。

 通産省の永山時雄は次郎に相談すると、次郎は「いいんじゃないか。競争があったほうが経済は発展する」と即座に賛成した。しかし、解体するとなると、電力事業を仕切っている日発が反発する。これを抑えられる者を電力会社の解体・再編する委員会のトップに据える必要がある。誰がいいか。