企業・生産者と消費者・生活者に隔たりがある
――報道からは、あまりそのような切迫感が伝わってくるように感じません。
あくまで私の見解ですが、テレビのニュースを見ていると、企業側、生産者側の視点に立った報道が多いように感じます。
生産者側にとって望ましいのは、とにかく人がお金を使ってくれること。生産者側というのは企業だけではなく、企業から給料をもらう労働者も含まれます。消費者がたくさんお金を使ってくれれば売り上げが伸び、給与として返ってくる。この循環は一見良さそうに見えますが、本来、消費者は“なんでもいいから”お金を使いたいわけではありません。自分たちが使いたいことに使いたい。これは大きな違いです。
災害などによる復興特需も、生産者側にとっては需要が増えて売り上げが伸び、GDPも増えます。しかし、被災した人にとっては、壊れた家を建て直すことにお金を使いたくなかったはず。
円安も同じです。輸出が増えることで企業側にとっては「良いこと」とされてきました。しかし、モノを買う消費者にとっては、物価高につながる。必ずしも良いこととは言えません。これまで経済政策では、消費者としての国民の声が十分に反映されてこなかったように思います。
そうした“見え方の偏り”の背景には、経済そのものの構造変化があります。かつては生産と消費がもっと近い距離にあった「手触りのある経済」でした。
たとえば、コメの価格が上がっているときに、身近に農家がいれば、「コメが足りないのだろうか」と肌で感じることができたと思います。でも時代の変化によって、それが感じにくくなっています。コメはまだ分かりやすいほうで、電気代などはさらに変化が見えにくいのはないでしょうか。
私たちが使っている電気は国内で発電されていますが、その燃料となる資源の多くは海外からの輸入に頼っています。つまり「電気をつくるための材料」を外国から買っているのです。だから、円安になれば当然コストも上がります。でも電気代の値上がりと円安の関係を自分の暮らしと結びつけて考えるのはなかなか難しいものです。資源を売る側、つまり産油国や資源国から見たら、日本の豊かさは、彼らの資源が減っていくことで成り立っています。
私たちの豊かさには、どこか遠くの誰かの“減り”の上に成り立っている一面もある。その現実を感じ取れなくしているのが、お金という仕組みの「幻想」なのではないかと思うのです。







