本を読んだのに、自分の言葉で説明できない。これで、読書の意味はあるのかと、不安になることはないでしょうか。自分の頭を衰えさせない本の読み方とは?
IVEチャン・ウォニョン氏や俳優ハ・ソクジン氏の愛読書と話題となり、韓国で262刷、60万部を超え、「哲学ブーム」の火付け役となった書籍『求めない練習 絶望の哲学者ショーペンハウアーの幸福論』をもとに解説します。

「自分の頭で考えない」ならば「本を読んではいけない」のか?

読書は目的ではなく、入り口である

読書とは、自ら考える代わりに、
他人に考えてもらうことだ。

――『求めない練習 絶望の哲学者ショーペンハウアーの幸福論』より

読書は、他人の思考の空間に入り、その枠の中で一緒に考える行為である。

しかし、そこで得たものが自然に自分のものへ消化されるわけではない。

消化できなければ、時間だけが過ぎ、理解は残らない。

他人の力に頼りきる癖は、自分の足で立つ力を弱らせる。

本に丸ごと身体を預ける読書は、ときに精神を鈍らせる毒にもなる。

だからこそ、受け取った考えを必ず自分の判断に通す必要がある。

独自に考える人は、君主のように自分で決める。

提示する意見は、すべて自分の思索の結果である。

彼らは権威をうのみにせず、偏見にも寄りかからない。

他人の評価や肩書は参考にとどめ、最後の決定は自分で下す。

間違った読書は、外部の権威に依存する体質を強める。

一方で、最も大きな幸福は、自分の精神で実をつけることにある。

本物の思想家は、自分のために考えたことだけが、真に価値があると知っている。

その楽しみと幸福は、思索それ自体にある。

ショーペンハウアーは、多読ではなく熟読を勧めた。

他人の思想を自分のものにするには、長い時間をかける思索が不可欠だと強調した。

だから読む前に自分の問いを一つ決め、読みながら要点を自分の言葉で言い直し、読み終えたら賛成と疑問を一つずつ残す。

その短い手順が、借り物の結論を減らし、判断を自前に戻す。

読書は目的地ではなく、思考を始めるための入口である。

(本記事は『求めない練習 絶望の哲学者ショーペンハウアーの幸福論』をもとに作成しました)