日本人は儒教というと「四書五経」とか、朱子学の理気とか、ものすごく難しい理論を連想しがちですが、孔子が説いたもともとの儒教は、そんなに難しいことはいっていません。

 実際『論語』を読むと、2500年も前にできた内容であるにもかかわらず、現在のわれわれから見ても、驚くほど違和感がありません。きちんと挨拶をしなさいとか、親孝行をしなさいとか、人生訓のようなことが書いてあるだけです。

 つまり、儒教の本来の教えは、わたしたちの生活の中に、リアルなものとしてある人間関係、人間のありようを、そのままモラル化・教義化したものだといえます。

人間は不平等だからこそ
上下関係を重んじる

 そうした中で、なぜ儒教ではあれほど上下関係にうるさいのか、とよくいわれます。でも日本人がこうした疑問を抱くのは、西洋思想の影響なのです。

 西洋では、「神のもとの平等」といって、絶対的な神の前では、王も庶民もみな平等だと考えます。でも現実に即して考えると、これはおかしくはないでしょうか。

 そもそも神がいるという前提が、まずおかしい。だれも見たこと、会ったことがないのに、なぜ神がいるといえるのでしょう。

 王も庶民も平等というのも、おかしい。社会的には、平等に扱われることはないからです。会社の中もそうでしょう。上司がいて部下がいます。年上がいて年下がいます。

 また身体的にいっても、背が高い人もいれば低い人もいます。腕力の強い人もいれば頭のよい人もいます。

 現実の世界には必ず上下優劣があるものなのです。儒教はそうした現実を素直に認め、受け入れるところからスタートしているのです。

 人間関係には、常に上下があり、平等などありえない――そうした現実を認めたうえで、上の人であれば何をしてもいいのか、下の者はいじけていていいのか、いや、そうではないだろう。上の者はきちんと下の者をかわいがるべきだし、上の者だってへりくだることは必要である。

 下の者はむやみに卑屈になるのではなく、きちんと上の者を尊敬すべきである。というように展開していくことで生まれたのが、儒教の基本とされる徳目「礼」なのです。