まずは自分が大事の精神が
中国の国民性の源流となる

 儒教は現実をありのままに受け入れます。そうしたとき、人間というのは本来、自己中心的なものだという現実に直面します。

 正直にいえば、他人より自分のほうがかわいいに決まっています。だから儒教では「衣食足りて礼節を知る」というのです。この言葉は、自分の衣食も乏しいのに、他人への礼節などかまっていられない、ということです。

 あたりまえといえば、あたりまえのことですが、現実を素直にとらえることからスタートしている儒教では、この「自分」という存在をまず尊重しているのです。他人との関係は、そのうえで考えます。

 儒教の経典「四書」の1つ『大学』には、「修身・斉家・治国・平天下」という有名なフレーズがあります。まずは自分の身を修め、それができたら家をととのえ治める。国や天下といった公のことは、それらができた後に取り組むべき問題だ、という意味です。

 常に「私」が優先し、しかるのちに「公」に尽くすというのが、儒教の教えの基礎にある考え方なのです。

 儒教で重んじている「礼」も、つきつめると、自分を優先するところからスタートしていることがわかります。

 たとえば、「礼」にもとづいた行為である「お辞儀」1つをとっても、頭を下げるという行為は、自分が高いからこそ「下げる」という行為が成立するのです。自分が高いことが前提なのです。

 自分を優先・尊重するからこそ、謙譲の精神が出てくる。

 相手に対する謙譲は、自己の尊重の裏返しなのです。

 一見矛盾しているように思えるかもしれませんが、これはとても真っ当な考え方です。なぜなら、自尊・自信のない謙譲は、単なる卑屈、隷従になってしまうからです。

 こうした儒教の成り立ちを知れば、「礼」を重んじる儒教から自己中心的な華夷思想、中華思想が生まれたのも、ある意味自然なことだとおわかりいただけるのではないでしょうか。

現実的な教えの行き着いた先は
進歩の否定と性善説

 われわれは、めざすべき「理想」は未来にあると思っています。そして、「理想」に向かって日々進歩向上していくことが善だという意識をもっています。