しかし、こうした考え方が、実は「西洋的」だということは自覚していません。

 たゆまぬ努力によって理想に向かって近づいていく。つまり、「進歩向上」が善だという意識は、実はとてもキリスト教的な、西洋的な考え方なのです。

 儒教的な考え方は、まったく違います。

 理想を掲げるのではなく、いまある現実を受け入れて、その中で自分たちがより良く生きるためにはどうすればよいのか、と考えるのが儒教だからです。

 正確にいえば、儒教にもあるべき姿、理想像はあります。あるのですが、それは「大昔」の聖人が体現したとされる姿で、それから見ると人間というのは、どんどん堕落してきて、いまがある。だから、なんとか努力して堕落を食い止めましょう、というのが儒教の考え方なのです。

 そのため、儒教には「進歩」という考え方はありません。すべてにおいて「昔のほうがよい」のです。

 ですから孔子の儒教を受け継いだ孟子は「性善説」を説いています。性善説というのは、「人間は本来、善なるものとして生まれる」という思想です。

 要するに、人間は、生まれてきたときがもっとも善で、それが時間の経過とともにだんだんと堕落していく、というわけです。

 こうした前提のもと、孟子はいかにしてその堕落を食い止めるのか、ということを説いたのです。

孔子が過去を美化する
考えに至ったワケ

 儒教における価値観は、このように西洋のそれとは発想が根本的に異なります。目の前の現実をよくしていこうというのは同じでも、めざすベクトルが違うのです。

 西洋が下から上へ向かって進んでいくことで現実をよくしようと考えるのに対し、中国の儒教は、上から下に落ちていくのを食い止めることでよくしよう、という方向の考え方なのです。

 西洋思想が「進歩・前進」に希望を見いだすのは、その基礎にキリスト教があるからだと思います。

 キリスト教には「原罪」、つまり、すべての人は生まれながらに罪人であるという「性悪説」とでもいうべき思考があります。また現世は苦難の連続であり、来世にこそ天国があると信じますから、未来ほど希望があって明るいわけです。「進歩」とか「進化」というのは、典型的な西洋的・キリスト教的思考なのです。