私たちヒトは、哺乳類のなかでは新しく出てきた生物であることは間違いない。しかし、それを「進歩」と呼ぶのは間違いだ。なぜなら進歩とは、「より良いものになる」という価値観の表現だからである。

 生物は単純なものから進化してきたので、あとから出てきた種のほうが、体制が複雑であることが多い。

 しかし、複雑な種のほうが「より良い」ものだと思うのは、価値観の問題だ。良い悪いは価値判断だからである。体制が単純か複雑かだけの話なら事実の描写だが、複雑なほうが単純なものよりも優れていると考えるのは、価値観の表明であり、科学ではない。

 また、生物はより複雑な体制をもつように進化するという法則も存在しない。

 しかし、人間には、必ずや複雑になるはずだと考えてしまう傾向があるようだ。いったん、眼という複雑な器官をもつようになった生物のグループのなかで、眼を失ったものが出てくると、それを「退化」と呼びたくなる。

 そして、「退化は進化の反対ですか?」という質問が出てくるのだが、これも間違いだ。眼という複雑な器官を獲得したあとで、眼が必要ない状況で暮らすようになった生物のなかに、眼を失うものが出てくるのは進化の1つの形態である。

生物の進化は単に
環境に適応しているだけ

 次によくある誤解は、進化には目的があるという考えだろうか。生物進化は、生物の集団内に生じた遺伝的変異が、その後、集団内に広がっていくかどうかの話なので、そこに目的は存在しない。

 もしも、ある生物集団が生息する環境において、ある遺伝的変異が生存と繁殖上有利であるならば、変異は広がっていく可能性が高い。不利であれば消えていくだろう。

 また、そんな生存と繁殖上の有利・不利とは関係がない変異は、集団のサイズが小さければ、増えるかどうかはたんなる偶然に任される。それを言えば、生存と繁殖上有利である場合でも、本当に集団中に広がるかどうかには、かなりの偶然が関わっている。

 ある生物の生息環境が一定で、長い期間にわたって何も変化がないならば、その生物は変わらない。