さらに、人権と平等という思想が広まり、大きな社会変革が起ころうとしていた。それでもまだ多くの人びとが貧困と過酷な運命に支配されてはいたものの、人びとは社会の進歩を信じていた。それが19世紀なのではないだろうか。
そして、進化という議論は、こんな19世紀の進歩思想の上で人びとに受け入れられたのだと思うのだ。ダーウィンは、生物の進化が、何かより良い方向に向かう変化だとは考えていなかった。ダーウィンの議論は社会思想ではない。
しかし、ダーウィンの進化の理論を受け入れた学者その他の人びとの多くは進歩思想の信奉者であり、自然淘汰という生物学の理論を、進歩思想というイデオロギーとして受け入れたのではないか、と私は思うのである。
だから、日本でも、進化を進歩だと勘違いしている議論が多々あるのだ。
遺伝か環境か、というイデオロギー論争は不毛だ。それと同時に、進化をめぐる議論も、真に生物学の議論の他に、進歩思想としての進化論という議論が根強くあるので、そのつもりで話をしなければならないのだろう。
複雑な種のほうが「良い」は
人間の価値観にすぎない
進化の話には、じつに多くの誤解がつきまとっている。私が「進化論」という言葉が嫌いなのは、そこにもろもろの誤解がすべてこびりついているように感じるからということもある。
誤解の筆頭に挙がるのが、先にも述べたように、進化を進歩と同一視する考えではないだろうか。
「進化するIT技術」のように、技術が向上することを進化と表現することが、商品の宣伝で日常的に使われていることもその表れであり、その考えを助長してもいるのだろう。
生物に関しても、昆虫などの無脊椎動物よりも、脊椎動物のほうが進歩していて上であり、脊椎動物のなかでは、魚類や両生類よりも哺乳類のほうが進歩していて上であると考える。そして、進化の頂上に立つのが人間だと考えるのだろう。
脊椎動物が無脊椎動物よりもあとに出てきたのは事実だし、哺乳類は魚類よりもあとに出てきた。







