結果が賭けでの儲けと結びつく構造がある限り、選手の一挙手一投足は「金銭リスク」として消費される側面は消せない。誹謗中傷の背後には、国内外のスポーツベッティング参加者が存在していると見られ、単なる「ファンの憤り」とは異なる様相を呈している。
加害者は、自らも“賭けに敗れた被害者”の意識を募らせており、怒りを正当化して発信している場合も多い。このような現象は、今後日本でもスポーツベッティングが拡大すれば、より深刻化するだろう。
スポーツベッティングは、勝者と敗者を生む競技のドラマに、勝てば懐が温まり、負ければ金が消えるという人間の欲望を重ね合わせた。
しかし、その欲望のドラマが、選手の尊厳と安全を脅かすものであってはならない。スポーツが娯楽であり続けるために、法と倫理の再設計が求められている。
スポーツ本来の楽しみと
賭ける興奮の境界が曖昧に
このような構造変化の中で、私たちは「ファンであること」の意味そのものを問い直す必要がある。
スポーツベッティングに参加するファンたちは、もはや単なる観戦者ではない。彼らは「勝敗に賭ける者」であり、「数字に基づいて判断する投資家」であり、「アルゴリズム的思考」を持った新しい観客層である。
この変化は、スポーツの持つコミュニティ的価値にも影を落とす。従来のスポーツ観戦は、地域性や歴史性、あるいは感情の共有に基づいて連帯感を生み出してきた。
だが、ベッティングは、その文脈を逸脱する関係性を構築してしまう。チームへの忠誠心よりも、数値的成果や即時的なリターンが重視されるようになると、スポーツが長年築いてきた文化的・社会的な繋がりは徐々に希薄になっていく。
デジタルネイティブの若年層にとって、スポーツを「観る」ことと、「操作する」ことの壁は低い。リアルタイムでのベット操作は、むしろ自然な拡張行為なのだ。
問題は、これが単なる嗜好の変化ではなく、金銭的リスクを伴う選択であるという点にある。スポーツベッティングはもちろん、多くのプラットフォームが課金システムを内包している。







