筆者は地方の宗教都市に生まれ育った。天理教の本部がある奈良県天理市である。

 このような信仰共同体において、創造神の働きや、明治中期に死没した教祖の「存命」を当たり前のものとして教わり、祝祭的なイベントによって「集合的沸騰」(宗教社会学者のエミール・デュルケームが提唱した概念。宗教的儀式の中で生まれる人々の一体感のこと)を幾度となく経験した。

 だが、結局のところ、信者になることを拒み、自ら一般社会に“亡命”した。そのような半生を経た筆者にとって、コミュニティは、「包摂と排除」という二面性を持つものとして当然のように意識されている。

 家族をはじめとした人間集団は、常に境界によって内と外を分ける。これは誰がメンバーであるかを画するものだからだ。もちろん、曖昧な領域は必ずどのような集団にも存在する。

 だが、これはコミュニティの本質ではない。重要なのは、誰が身銭を切ってでも守るべき対象かどうかを判別し、それ以外の人々に対する関心が希薄になることにある。

 筆者はもとから信仰心がないタイプで、小学校高学年の段階で創造神の存在を疑問視し、宗教行事は仕方がなく参加していただけだったから、熱心な信者から心ない言葉を投げ掛けられたことも一度や二度ではなかった。

 だが、彼らは彼らなりのやり方で筆者を「包摂」しようとしていただけなのだ。信仰共同体の内部における道徳律への順応といえばそれまでだが、これは「世俗的道徳」においても何ら変わらない。

 コミュニティは特定の価値を共有している。共有できない者は立ち去るしかない。「排除」には、「追い出す」ようなニュアンスが付いて回るが、「門戸を閉ざす」という表現のほうがしっくりくる。そして、コミュニティの外側では、砂粒のような個人が所在なさげに浮遊している……。

さまざまな業界で
ソロ活が注目を集める

 このようなコミュニティの対極にあるといえる、自由な主体としての生き方を象徴しているのが「ソロ活」である。

 近年「おひとり様」向けビジネスは急伸している。外食産業では、「1人客」専用の席や独自のプランが設けられ、アウトドア業界では単独でキャンプを行う「ソロキャンプ」がブームになった。