「正義の心」が変質して「暴力」に

 当然著作権や肖像権などでアウトなのだが、関係者からの異議申し立てがない限りなかなか精査されないので結構野放しになっている。また、一度削除されたとしても別の誰かが再度その素材を投稿することもあって、しぶといゾンビみたいな残り方をする。 

 そうした繰り返し使われるショート動画素材の中に、街中で揉めた様子を撮影して、被写体が晒され叩かれるようなものも含まれているから、晒しの界隈はさらに広がっているという側面もある。

 と、このようにして晒し叩きが過熱していくわけである。事件の2次利用が起きやすいSNSの実態やSNS拡散アルゴリズムが、人間の群集心理を大きくする役割をちょうどぴったりはまった形で果たしている。

 社会を股にかけたこの巨大な構造を前に投稿者、叩かれる人、騒動に加わる1ユーザーたちという参加者全員が、大いに翻弄されている感はある。

 構造が大きいためがむしゃらに抵抗しても無力なのだが、晒し叩きが順を追って大きくなっていくフェーズごとに、逐一温度を下げる方法はある。

 たとえば投稿者は、投稿前にその晒し要素で本当に問題ないか今一度自問自答する。正義を行いたい場合は「叩く」ではなく「是正」を目的とし、騒動を大きくしないために見えない方法(当事者やその関係組織に連絡するなど)を取る。

 群集の中にあっても自分という存在に自覚的でいるよう努める……などである。

 本来なら誰かが持っているのを見かけると誇らしい気にさせられる「正義の心」が、晒し叩きでは変質して歯止めのきかない暴力になり得る。まずはそれをもたらす構造の全容を知っておくことが、この晒し叩き全盛の現代において理知的でいられるためのヒントになるはずである。

【参考】
 
『新版 人は、なぜ他人を許せないのか?』(中野信子著・アスコム)
 
「インターネットにおけるアイデンテイティ 一社会心理学的視点から一(森尾博昭)」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsai/24/4/24_535/_pdf
 
「思い込みが「空気」をつくる? -多元的無知の紹介(NECソリューションイノベータ株式会社)」
https://note.nec-solutioninnovators.co.jp/n/nd44d87513b72
 
「Emotional Framing in the Spreading of False and True Claims(Akram Sadat Hosseini, Steffen Staab)」
https://arxiv.org/abs/2303.16733