だが就職は生まれて初めて直面する一大難関となった。当時の日本は高度成長まっしぐらで大学にも銀行、商社、造船等の大企業から求人が殺到した。卒業見込みの者は早々に内定を取り皆悠々としていたが、難聴の私にだけさっぱり声がかからない。卒業が迫っても全く就職先が決定しないことに随分焦り、就職担当の教授に「なぜ推薦して頂けないのか」と尋ねた。
教授は「君、耳が聞こえないのだろう。とても推薦は無理」と、さも当然そうに言った。教授は社会学の専門家として著名で、地元ではかなりの人格者とみられメディアに露出の多い人だった。そんな方でも障害を有する学生には一片の配慮もないことに暗澹たる思いだった。
中学の校長だった父の縁故で、卒業間際にようやく地元の乳業会社に就職した。仕事は事務職だったが、顧客や牛乳販売店などからひっきりなしに電話がかかり事務所は戦場のようだった。その中、私だけが電話ができずのんびりと記帳したり、ゆっくりと算盤の玉をはじく状態で職場から孤立していた。
自活の道を決意するも
無能力者とみなされ失望
小さな会社でほとんど業績に寄与することもできず追い出されるようにして1年ほどで退職した。この時ほど難聴の辛さを痛感したことはなかった。しばらく呆然たる思いで自宅に閉じこもっていた。人生のスタートで大きく挫折した屈辱感で一杯だった。
父はすでに中学校を退職しており、私を遊ばせる家計の余裕などなかった。現実はすこぶる厳しい。仕事は何でもよい、自活の道を早く確保しようと気持ちを持ち直し、地元の職安(公共職業安定所)を訪れた。身障者就職紹介の窓口に行った。でも何度訪れても一向に就職先を紹介してもらえない。広島は経済規模が小さいため中小企業が多く、私を雇用してくれる企業はありそうになかった。
そうした事情を理解はしてもなかなか紹介してもらえないので、係の人に「何とかしてください」と申し出ると、求人票の束を目前に投げつけられ、「お前が自分で探してみろ」と多くの職員がいる中で大声で怒鳴られた。







