たとえば、そうした葬儀社主導の葬儀の場で、読経を終えた僧侶が遺族らに法話をするようなことも今日では少なくなっている。葬儀社側のタイムテーブルを乱す可能性があるからだ。
従来、日本の各伝統仏教教団は葬儀を、「檀家たちに仏教徒としての思いを新たにしてもらう場」と位置付けて重視してきた流れがあり、「葬儀の場こそ布教の場である」といったことを語り、通夜の場などでの法話に力を入れる僧侶も多かった。
しかし、今その状況は大きく変わっている。
なんでも手配する葬儀社が
葬式を骨抜きにしてしまった!?
この「今の葬儀は葬儀社に主導権が握られている」という問題への不満は、日本の仏教界にかなり強く鬱積している話になっている。
たとえば、日本の伝統仏教宗派の連合組織・全日本仏教会(全日仏)が2007年11月に行った「第40回全日本仏教徒会議神奈川大会」では、横浜市仏教連合会時局対策委員長の佐藤功岳が「現代社会における仏教葬儀のあり方 本来の機能を失いつつある現代の仏教葬」というテーマで提言に立ち、「昭和50年代から大都市では、葬儀の主導権が地域や寺院から葬祭業者へ移っていった。告別式という言い方が当たり前になり、葬儀は祈りの場、布教の場では無くなりつつある」と語り、僧侶としての率直な危機感を表明している(全日仏編『財団創立五十周年記念 全日本仏教会の歩みと展望』より)。
また、人が亡くなった際、火葬場の手配から死亡届を役所に提出することまでやってくれるのが現在の葬儀社で(当然、その葬儀社の仕事のなかには「僧侶の手配」まで含まれる場合もある)、「葬儀をどうやればいいのか」に関して遺族に最も“寄り添っている”のは、今やお坊さんではなく葬儀社だ。
高橋卓志(編集部注/臨済宗の僧侶、神宮寺住職)は、現在の葬儀がそういう形になってしまっていることについて、著書『寺よ、変われ』の中でこう書いている。
《近年、大半の葬儀は葬儀社ホールが使われ、寺や自宅が使われることが少なくなっている。このことは葬儀における坊さんたちの仕事が、より楽になってきたことを意味している。つまり衣や袈裟をかばんに詰めて葬儀ホールへ出向き、そこで一時間程度の通夜、および葬儀を勤めれば、仕事は終わるということなのである。わずかの時間、死者と向き合ってさえいればお布施は入ってくる。遺族との間に普段の交流がなければ、遺族と向き合う必要もない。







