この流れは葬儀社がつくり出した死者と坊さんの関係性である。それに対して、坊さんたちは、ほとんど疑問を呈することもなく、追随している。改革を叫んでいる坊さんたちでさえ、この状況をなかなか断ち切れない。》

楽にお金を稼げる現状に
複雑な思いを抱える僧侶たち

 つまり、お坊さんの側も葬儀社のつくった“葬儀のルーチン”に乗れば“楽”ができる部分があって、それで自ら“葬儀の主導権”を手渡してしまったのではないか、ということだ。

 すなわち現在、“葬式仏教”とは実は、仏教界で管理、掌握できるものではなくなっている。ゆえに“改革派僧侶”たちは、“葬式仏教”という概念そのものに、攻撃的なまでの問題提起を続けてきたのである。

 これは外部からは一見、「お坊さんが自分たちの食い扶持であるはずの“お葬式”を否定している」ようにも見える滑稽な姿なのかもしれない。

 しかし、お坊さん側としての本音はつまり、「葬儀社から葬儀の主導権を取り戻そう」という話であって、よってこれは、広い意味での“葬儀業界”の内紛話なのである。

 であるから、たとえば高橋卓志が著書『寺よ、変われ』の中で自らの“お寺改革”の事例として紹介しているのは、寺として僧侶以外のスタッフも雇い、檀家たちの葬儀には自らでもろもろの対応にあたる、いわば「お寺の中に葬儀社の仕事をする部門をつくる」という取り組みだった。

 そうすることによって、少なくとも高橋自身は葬儀社との関係を「断ち切れる」と考えたのだろう。

葬儀社を排除したとしても
葬儀の主導権は寺に戻らない?

 しかし、ここで冷静に考えてみなければならないことがある。それは「本当に葬儀社を葬儀の現場から排除することができれば、葬儀の主導権は寺に“戻ってくる”のか」ということである。

 著者としての考えをまず書いておけば、たぶん戻ってこない。というよりも、そもそも葬儀の“主導権なるものは、昔の時代であっても寺の手に握られていたことがあったのか、ということを考えねばならない。