もはや葬儀社に雇われた役者のようなもの!?読経して帰るだけでお金がもらえる僧侶の偽らざる本音とは写真はイメージです Photo:PIXTA

かつて葬儀といえば、僧侶が中心となって執り行うものだった。しかし現在、多くの葬儀で主導権を握っているのは葬儀社。いまや僧侶は葬儀社にキャスティングされ、決められた時間にお経を読み、静かに帰っていくだけの存在になりつつある。楽にお金は稼げる一方で、僧侶の本分からは程遠い…。この歪んだ葬儀の現状を、僧侶たちはどう受け止めているのか?※本稿は、『宗教問題』編集長の小川寛大『誰が「お寺」を殺すのか』(宝島社新書)の一部を抜粋・編集したものです。

葬儀社に呼ばれた僧侶たちは
法話もしないで帰っていく

 あえて誤解を恐れずに書くが、葬儀社にとっての葬儀とは、日々ルーチン的に回していく“舞台演劇”のようなものである。なにしろ、彼らが持つ葬祭ホールでは(とくに人口の多い都市部などの場合)1日に何件もの葬儀が執り行われる。

 タイムテーブルをきちんと管理しなければ回らないわけで、葬儀は葬儀社の社員などが“司会”として立って取り仕切り、いわば彼らがつくる“台本”に沿って、喪主があいさつをし、会葬者が焼香などをし、想定された時間の範囲内に終了する。

 そのなかにおいて僧侶とは、「葬儀社の決めたタイミングで葬儀会場に現れ、一定の時間内でお経を読んで退出していく一種の役者、道具立て」のようなものなのである。

 このように言うと、「われわれはきちんと宗教者に対して敬意を持っています」といった、猛然たる反論が葬儀社サイドから寄せられることもある。

 しかし、現実として彼らの葬祭ホールで行われる“今日の葬儀”の多くが、そういうきわめてルーチン的に“処理”されているものになっていることは事実である。