秀長は武力だけでなく
取次としても才覚を発揮した

 秀長・秀次軍は木津城の攻略後、牛岐城を調略。さらに秀長軍は一宮城を、秀次軍は別行動をとって脇城を攻撃したが、両城には長宗我部家の一族や重臣が在城していて根強い抵抗を受けている。

 そして7月中旬より和睦交渉が行われ、8月に長宗我部元親が降伏し、当初の条件どおり、元親は土佐一国のみの領有を許されることで四国は平定された。

 その後、元親に許された「土佐一国」以外の三国については、阿波は蜂須賀家政(正勝の子)、讃岐は仙石久秀、伊予は小早川隆景が封じられた。また、淡路は脇坂安治と加藤嘉明に与えられている。

 同年10月、元親は秀吉のもとへ出仕し、秀吉への従属が確定した。その際、秀長は元親に同行して取次を行っている。秀長はこののち、諸国の大名家が秀吉に従属するにあたって、それらへの取次を務めることになるが、これがその最初の事例である。

 ところで、この四国征伐のさなかの7月11日、秀吉は従一位・関白に叙任されている。

 ちょうどこの頃、この年始めに秀吉が左大臣への任官を望んだことで、関白職をめぐって摂関家の近衛信輔(のちの信尹)と二条昭実が争い、両者とも譲らなかった。

 そこで秀吉は、摂関職は藤原五摂家でないと就任できないため摂関家筆頭の近衛前久を説得してその猶子となり、平姓から藤原姓に改姓して関白の地位を手に入れたのである。

 ただし秀吉は、藤氏長者(藤原氏一族全体の氏長者)の統制下に置かれることをよしとせず、正親町天皇に豊臣姓への改姓を申請し、これが認められている。

 ここに豊臣という新たな姓が創出され、秀吉はその氏長者となった。

 こののち秀吉は、一門衆・諸大名・直臣らに官位を与えていくが、それは豊氏の長者として朝廷に推挙する体裁をとり、そのため叙任者の姓は、基本的には豊臣に改姓されていくことになる。

錚々たる武将を率いて
島津軍を追い詰めていく

 天正14年(1586)9月、秀吉は九州征伐の先遣隊として、長宗我部元親・信親父子ら四国勢を豊後の大友家領国に進軍させた。