しかし、この先遣隊は同年12月に、秀吉出陣まで戦闘を避けるようにとの指示に背いて戸次川(大分市)で島津軍に敗北し、元親の嫡男・信親が戦死している。一方で、この頃、中国の毛利軍も九州に上陸し、それを受けて九州北部の大名・国衆が相次いで秀吉に従属した。

 翌年正月、秀吉は九州攻めの陣容を決定。同月25日、まずは先陣として備前の宇喜多秀家が出陣したのを皮切りに、羽柴軍は続々と九州へ向けて出陣。秀長は、四番隊として2月10日に出陣した。

 3月1日に長門赤間関(下関市)に到着した秀長軍は、同月6日に小早川隆景を従えて九州に渡り、豊前小倉に着陣した。

 大友義統(宗麟の嫡男)と先遣隊の黒田孝高・蜂須賀家政を先陣とし、続いて毛利輝元・小早川隆景・吉川元春の毛利軍、次いで宇喜多秀家と宮部継潤・南条元続らの因幡・伯耆勢、最後尾に秀長軍という大軍勢で、豊前から豊後、日向と九州東部を南下した。

 一方、3月1日に大坂を出陣した秀吉は、同月28日に九州に上陸。豊前から筑前、肥後へと九州西部を、島津勢を鎮圧しながら進軍していった。

 秀長を総大将とする羽柴軍の別働隊が日向への侵攻を開始すると、島津軍は後退。羽柴軍は4月6日に日向耳川(日向市)で島津軍に勝利し、高城城に後退させた。

 島津義久・義珍(義弘)は、高城城救援のため都於郡城を出陣して、宮部継潤らが在陣していた根白坂の砦を攻撃するも、反撃にあい撤退を余儀なくされる。これを受けて秀長は、義久のもとに使者を派遣し、降伏を勧告した。

有力外様大名の統制は
秀長なしには保たれなかった

 4月22日、義久は重臣・伊集院忠棟を秀長本陣に派遣し、降伏を申し出る。また、5月3日には、秀吉が在陣する川内泰平寺に伊集院忠棟を遣わし、降伏を願い出ている。

 同月8日、義久は出家姿で秀吉本陣に出頭し、正式に降伏。義久の降伏後も抵抗していた弟の義珍も、同月19日に日向諸県郡野尻(小林市)に在陣していた秀長のもとに出頭した。