この和泉・紀伊平定をうけて、秀長は秀吉から紀伊・和泉2カ国を領国として与えられている。それまで領国であった播磨三郡・但馬からの転封という形であったが、これにより石高はほぼ倍増した。

 ただし、このときも播磨同様に、紀伊・和泉すべてを所領としたわけではなく、両国内にある秀吉直臣たちの所領以外についてのみ、支配権を認められていたようだ。

続く四国征伐で見せた
豊臣兄弟の阿吽の呼吸

 紀州征伐に続いて、秀吉は四国の長宗我部元親の征伐に乗り出す。なお、この四国征伐は当初、秀吉の出陣が予定されていたが、病を患ったことで秀長が総大将を務めることになった。

 ちなみに、四国征伐に先んじて長宗我部元親は、秀吉に対して、阿波・讃岐両国を差し出し、土佐・伊予2カ国の安堵を求めるという条件で和議を願い出ていた。

 しかし、秀吉は毛利一族の小早川隆景に伊予一国を与える約束をしていたため、元親には土佐一国しか領有を認めないとし、四国征伐はそれに従わせるための出兵だった。

 天正13年6月16日、秀長は四国攻めの先陣として和歌山城を出陣した。

 なお、羽柴軍の陣容は、秀長を大将にした軍勢が和泉から淡路洲本(洲本市)に進軍し、羽柴秀次を大将にした軍勢が播磨明石(明石市)から淡路岩屋(淡路市)に進軍、宇喜多秀家と蜂須賀正勝、黒田孝高らの軍勢が備前から讃岐に進軍し、毛利家の軍勢が安芸から伊予に進軍するという大規模なものだった。

 秀長は淡路福良(南あわじ市)で秀次軍と合流して阿波の土佐泊に上陸し、そこで宇喜多軍と合流した。そして秀長・秀次軍はすぐに木津城を攻撃し、7月5日に同城を攻略した。

 なお、病気から快復した秀吉は、7月3日に大坂城を出陣する予定だったが、木津城の攻略寸前だった秀長は、秀吉が出陣すると秀長の力量不足ということになり、「当座の恥辱」をうけることになるので、出陣を延期してほしいと要請する書状を送っている。

 この秀長の思いを受け止めてか、秀吉は出陣を7月10日に延期し、のちに出陣そのものを中止している。