それでは、医療、年金、介護を高齢者層の利害とし、これに対して少子化対策や文教を若年者層の利害としてみなし、両者を比べたらどうだろうか。

 ここでの狙いは、こうして測られるSDに関する不当と正当の線引きではない。むしろ問題にしたいのは、医療、年金、介護が高齢者向けで、少子化対策や文教を若者向けと発想する、私たちの常識的な理解だ。

 若者であってもいずれ社会保障の助けを借りることになるだろうし、そもそも自らの家族がいま助けられているかもしれない。逆に、若者向けとされる支出で、高齢者の生活が充実していることは十分に考えられる。

 予算をめぐる世代間対立を錯覚だとするのは言い過ぎかもしれないが、その実情はいっそう複雑である。

 社会保障費の増額は、SDを背景とした高齢者層に対するバラマキではなく、現存世代全体を支える福祉制度の拡充と解釈できないだろうか――それがいま不在の将来世代との格差を拡大させているとも言えそうだが。

高齢者がいつも多数決で勝つ
民主主義社会は持続可能か

 それでは予算をめぐる世代間の分捕り合戦という発想を退けるなら、SDにどのような問題が残っているのか。それは民主主義の原理にかかわる問題である。高齢者が政治世界を実質的に支配するという民主主義の帰結とは区別された、民主主義それ自体の条件に関する問題である。

 第1に、若年層にとって、たとえ形式的なものであれSDの現状は、自らの自己統治の実質を奪うような脅威として想定されうる。たしかにこの感覚は、善意の高齢者の多さという事実からすれば誤りかもしれない。

 だがここで問題となっているのは、年齢という属性である。民主主義の条件の時点で、特定の属性の人間が多いのは不公平ではないだろうか。このとき、世代間対立という解釈は、容易に民主主義にとり憑くことになる。

 第2に、年齢という属性が限定されることで、民主主義に反映されるべき多様性が縮減されるだろう。その結果、変化や革新、あるいは支配的な価値観の是正が、政治的に実現しにくくなると考えられる。

 最終的には、このように公平性と多様性が失われた民主主義に、私たちが愛想を尽かしてしまうかもしれない。