江戸幕府が全盛期を迎えようとしていた17世紀後半、日本全国の農家は野生動物の食害で苦しんでいました。とくに対馬藩ではイノシシ・シカの食害が激しく「百姓身上つふれ」(農家の破産)が発生したと記録されています。
このままでは村々が成り立たなくなってしまうと考えた対馬藩は1699年に「猪鹿逐詰」を計画します。それは藩を挙げての大事業でした。大きな垣根を作って島を6区画に分けます。一番北の区画は、長さ16キロメートルの大垣で区切り、更に内垣で8つに区切ることにしました。このような大垣と内垣の組み合わせを築いていき、区画内のイノシシとシカを根絶する計画でした。
隠れ場になりそうな薮や茂みは焼くか刈り払い、面積約12平方キロメートルあたりに人夫600人とイヌ200匹を配置し、隊列を組みながら進んでイノシシとシカを追い出していきます。
イノシシやシカが海に泳ぎ出した時に備えて船の準備もしました。計画全体ではのべ約23万人の動員(当時の対馬藩の人口は約3万人)と1603石(240トン)余りの食料が必要だと見積もられました(注1)。
この計画は江戸幕府の了解を得て、1700年から実行されました。
民衆と侍が身分を超えて
イノシシを追う様子も
「猪鹿逐詰の図」の複写を見たことがあります。民衆が侍と一体となってイノシシを追っている様子がいきいきと描かれていました。こん棒を振りかざして多くの人々が走り回り、追われたイノシシがイヌに食いつかれていました。別の場所では、隊列を組んだ人々が土煙を上げてイノシシに迫り、背後には火の手が上がっていました。
この図は郷土史家・日野清三郎が、昭和時代に入ってから、事業内容を説明して佐賀和亭(対馬藩主の子孫)に描いてもらったものですが、原図の所在や所有者がわからなくなっています。このため、ここに載せることはできませんでしたが、対馬市のウェブサイトで複写を見ることができます。
(注1)俵裕一(2007)「『猪鹿追詰之次第』にみる陶山訥庵の猪狩り」『対馬歴史民族資料館報』30:2―6。







