毎年、農閑期にこのような作戦が繰り返され、大垣で区切られた区画が6から9に増え、実施期間も9年に伸びましたが、対馬藩は8万頭余り(正確な数はわかっていません)を駆除してイノシシを絶滅させました。シカは狩猟獣として価値があると判断して、少数だけ残しました。
規模は様々ですがイノシシ・シカの駆除は全国各地で行われました。秋田県の男鹿半島では1712年から72年までの間に少なくとも5万3750頭のシカが捕獲された、と記録されています(注2)。
東北地方では、各地で大規模な捕獲が繰り返され、イノシシ・シカの地域的な絶滅が起きました(注3)。
猪や鹿を退治と呼称しなかったのは
「生類憐れみの令」の影響
ところで、「猪鹿逐詰」はなぜ「退治」と名づけられなかったのでしょうか。それには「生類憐れみの令」が関係しています。
五代将軍・徳川綱吉は、犬公方とあだ名されるような変人で、偏った政治を行ったと批判されてきましたが、最近では戦国時代から続く武威による統治から法律を重視する文治政治への転換を進めた政治家だと再評価されています。
綱吉の治世が始まった頃は、命を軽く扱う戦国の気風が残っていました。市中では辻斬りが横行し、病人や家畜は見捨てられ、捨て子を養育する制度などはありませんでした。
綱吉政権は、1685年から「捨牛馬禁令」「捨子・捨病人の禁令」など「生類憐れみ」関連の法律を出し始めます。また、浪人の武装解除や盗賊対策として関東地方で行っていた「鉄砲改め」を全国に広げました。鉄砲の所有は大幅に制限され、(1)用心鉄砲(「物騒」な地域に限って預けられた武器)、(2)威鉄砲(鳥獣を音で威嚇する農具。実弾は使えない)、(3)猟師鉄砲(狩猟で生活する者だけに認めれた猟具)以外の鉄砲は取り上げられました。
(注2)吉田三郎(1935)『男鹿寒風山麓農民手記』アチックミユーゼアム。
(注3)梶光一(2023)『ワイルドライフ・マネジメント』東京大学出版会。







