Photo:SANKEI
1978年、ヤクルトスワローズは球団史上初のリーグ優勝を果たし、日本シリーズも制した。“奇跡の日本一”の立役者である監督・広岡達朗だが、翌年は開幕直後から低迷し、シーズンの途中でまさかの退任。チーム内で何が起きていたのか?90歳を過ぎた名将・広岡氏の証言をもとに、「広岡革命」挫折の全容に迫る。※本稿は、ノンフィクションライターの長谷川晶一『正しすぎた人 広岡達朗がスワローズで見た夢』(文藝春秋)の一部を抜粋・編集したものです。
日本一を達成した翌年に
シーズン序盤から低迷したのはなぜ?
栄光は長くは続かなかった。
球団史上初となるリーグ優勝、日本一を達成した。広岡達朗の頭にあったのは「絶対に連覇する」の思いだった。そしてその先には、あの川上哲治(編集部注/読売ジャイアンツの監督として、1965年~1973年の9年間連続で日本シリーズを制覇)も成し得なかった「10連覇」を見据えていた。ところが、広岡の夢は脆くも崩れ去っていく。
1979(昭和54)年ペナントレース――。
ヤクルトスワローズは開幕から8連敗を喫する。5月下旬には5割に復帰するものの、6月に再び最下位に沈むと、そこから浮上することは一度もなかった。
そして8月、球団フロントは森昌彦(現・祇晶)ヘッドコーチと、植村義信投手コーチの休養を決めた。自分に何の相談もなく独断での決定だったことで、広岡は激怒する。
8月17日、広岡は退団を決めた。「この5年間、自分の持っているすべてを出した」と、前代未聞の声明文を発表。この日の夜に予定されていた後楽園球場の読売ジャイアンツ戦からの指揮を拒否したのである。







