言葉の端々から、広岡に対する信頼感が伝わってくる。ドラフト9位でプロ入りし、なかなか芽が出なかった自分を見出してくれた恩義があるからだ。そして同時に、チーム内に蔓延しつつあった「広岡への不満」に対するとまどい、それに対して無力な自分への苛立ちもよく理解できた。水谷は力なくつぶやく。

「チーム状況がよくないこと、選手間で不満が溜まっていることはもちろん理解していたけど、当時25歳になったばかりの僕は、自分の思っていることを口にすることはできませんでした……」

 恩師のために何もできないもどかしさがよく伝わってきた。

球団のオーナーと社長に
「勝つな」と言われたんです

――前年に日本一になったにもかかわらず、どうして翌1979年はあんなに呆気なくチームは崩壊し、あなたもシーズン途中で退任せねばならなかったのか?

 卒寿を過ぎた広岡に尋ねる。

「私は松園(尚巳)オーナー、佐藤(邦雄)社長に嫌われたんですよ」

 答えになっていない。再度同じ質問を重ねた。

「あの2人に、“勝つな”と言われたんです。森や植村は私が連れてきたコーチ。この2人を、監督である私に何の相談もなく、勝手にクビにしてしまった。監督の許可なく、自分たちの息のかかった配下を重用したかった。それはすなわち、“勝つな”ということと一緒。私は松園オーナーに嫌われていたんです」

 1976年シーズン途中からの3年契約を結んでいた広岡は、元々、日本一を置き土産に退任することを決めていたという。

 けれども、「優勝監督がすぐにチームを去ってしまうのは世間体が悪い」との理由で、松園オーナーから続投要請を受けた。そのように一般報道もされているし、広岡自身もそう語っている。

 けれども、日本一達成直後から広岡はすぐに「連覇を目指す」という強い意志で1979年を迎えている。勝利への執念はさらに燃え盛っていた。

――たとえ、森、植村両コーチがチームを去ったとしても、それでも連覇に向けて、チーム再建に向けて、グッと耐え忍ぶという選択肢はありませんでしたか?