10~11世紀頃から東国の豪族武士たちが、自分の名前に本拠地の地名を冠して名乗るようになった。これを「名字」という。
東国武士の代表的な名字としては、清和源氏(編集部注/清和天皇の血を引く源氏の一派)では、常陸国佐竹郷(茨城県)の佐竹氏、上野国新田荘(群馬県)の新田氏、下野国足利荘(栃木県)の足利氏などがある。桓武平氏(桓武天皇の血を引く平氏の一族)では、相模国三浦郡(神奈川県)の三浦氏、上総国(千葉県)の上総氏、下総国千葉荘(千葉県)の千葉氏、武蔵国秩父郡(埼玉県)の秩父氏、伊豆国田方郡北条郷(静岡県)の北条氏などが挙げられる。
やがて土地を持つ上層農民も名字を名乗るようになったので、弥右衛門は武士、あるいは上層農民ということになる。
しかし『太閤素生記』は秀吉の生年など重要な情報を間違えており、弥右衛門が「木下」という名字を持っていたと説く同書の主張を軽々に採用できない。
なお学界では、木下姓は秀吉の妻である「ねね」(のちの高台院)の母方の姓とする説もある。
秀吉像の元となった文献は
どれも信憑性に疑問符がつく
足軽としての活動や中村で百姓となる帰農の描写についても、史実との乖離の可能性が指摘されている。
たとえば、弥右衛門が鉄砲足軽であったとされる点は、弥右衛門が生きた時代にはまだ日本で鉄砲が普及していないので、矛盾をはらむ(弥右衛門は天文12年に亡くなったとされるが、種子島に鉄砲が伝来したのはその天文12年のことである)。
ところで『太閤素生記』に先行して寛永年間に刊行された小瀬甫庵の『太閤記』(以下、『甫庵太閤記』と表記)は、秀吉の実父を筑阿弥とし、筑阿弥は織田大和守(信秀の主君、清須織田家)の同朋衆であると語る。
『太閤素生記』が説く秀吉の生い立ちは、『甫庵太閤記』の記述を基に脚色したものと思われる。
『甫庵太閤記』の書きぶりでは秀吉は百姓の出ではなかったようだが、さりとて立派な身分とは言えない。加えて、『甫庵太閤記』の記述は他の史料で裏付けることができない。







