以上のように、弥右衛門や筑阿弥の実在を史料によって確定することはできない。

周りの反応が示す
秀吉の極めて低い身分

 豊臣秀吉は天下人なのに、父親の名前すらはっきりしないのである(法名は妙雲院殿)。

 この事実は、秀吉の出自が非常に低いことを示唆する。実際、秀吉が織田家の部将として名を成す以前に、秀吉の親族で一定の地位を得ていたのは、秀吉と同じく織田信長に仕えた秀長だけである(秀長は永禄9年頃には結婚している)。

 寛永8年(1631)以前に成立したとされる『豊鑑』(秀吉に仕えた竹中半兵衛重治の子である竹中重門の著作)は「あやしの民の子なれば、父母の名も誰かは知らむ。一族などもしかなり」と記す。父母の名も不明な低い身分だったのだ。

 同時代史料を見る限り、当時の人々は秀吉を下賤の身とみなしていた。毛利氏の外交僧である安国寺恵瓊は、本能寺の変後、秀吉との領土画定交渉を担当し、経過を本国に報告しているが、天正12年(1584)の書状で「少事の儀は、小者一ヶにても、また乞食をも仕り候て存ぜられ候仁」と秀吉を評している。

 秀吉は若い頃には取るに足らない下働きで、乞食もしていたというのである。

 天正6年の耳川の戦いに勝利した後、島津義久は大友宗麟に対して攻勢に出て、大友氏の領土を次々と奪っていった。

 天正14年、秀吉は関白としての立場から大友宗麟と島津義久に停戦を命じた。対大友戦を優勢に進めている島津は停戦命令に反発するが、拒否すれば秀吉を敵に回すことになる。島津家中で侃々諤々の議論になり、島津氏家老の上井覚兼は「羽柴の事は、寔々由来なき仁と世上沙汰し候」と日記に記している。

 秀吉はどこの馬の骨かも分からない人物であり、その命令に従うのは屈辱であると見下しているのである。

 イエズス会宣教師のルイス・フロイスも著書『日本史』に、秀吉は「貧しい百姓の倅として生まれた」「下賤の家柄」と記している。むろん以上3つの記述は伝聞情報だろう。