ただの「ゴミ」に見えても
彼女からすれば「食べ物」

 田中さんの所持金は8円だったという。想像したい。8円しかないという現実を。たまたま口座からお金を引き出すことを忘れたわけではない。全財産が8円だったのだ。僕ならどうだろうか。

 さらに所持品は「衣類と食品のゴミ」だったと報道されていた。この報道は間違っていると思う。記者の目には、あるいは担当した警察官には「食品のゴミ」としか映らなかったのだ。

 だが、それは彼女の「食べ物」だったのではないか。「ゴミ」ではない。誰が「ゴミ」を大事に持ち歩くだろうか。いのちをつなぎとめるための「食べ物」だったのだ。

「『ゴミ』といわれるものを食べざるを得ない人の気持ち」を想像したい。自分ならどうだろうかと。

 多くの野宿者が食べ物を「エサ」と呼ぶ。関東でも、関西でも、そして九州の野宿者も。僕が「人が食べているのだから『食べ物』と言ったらどうですか」と話すと「残飯を漁っているから犬や猫と一緒。だからエサ」と彼らは言う。

「エサ」ならまだ「食べ物」の範疇にとどまるが「ゴミ」は「食べ物」ではない。

 突如襲撃されたホームレス状態の女性の悲劇を伝える記事であるにもかかわらず、残念ながら記事は「想像力」に欠けていたと言わざるを得ない。

 記者は「伝えなければならない」との正義感をもって記事を書いたと思う。この事件は、当日のトップニュースにもなった。しかし、そこには想像と共感はどれだけあったろうか。

電源の入らない携帯電話を
なぜ大事に持っていたのか?

 さらに彼女にはもう1つの所持品があったという。「電源の入らない携帯電話」。

 どんな思いで携帯電話を握りしめていたのだろう。かつて電話の先にはどんな人々がいたのだろう。その人々は、彼女が亡くなったことを知っているだろうか。親戚の連絡先などが書かれたメモも見つかったそうだ。

 彼女は、誰かとつながっていたかったのだと思う。