戒名もお布施もいらないと
みなが薄々思っていた

 そうした状況になってきた以上、追善(編集部注/亡くなった方の冥福を祈るために、四十九日、百ケ日、年忌に仏事を行うこと)ということは完全に意味のないものになっており、その価値を信じることは難しくなっている。しかも、追善のための布施は、寺や僧侶に対してなされるもので、もっぱらその経済活動を支えるためのものなのである。

 葬式においては、僧侶は導師として丁重な扱いを受ける。葬斎場では、導師のための立派なスリッパが用意されていたりする。地方によっては、葬式の後に、導師となった僧侶を酒食によって丁重にもてなすことが慣習になっているところもある。

 葬式が営まれる中で、もっとも上位に位置づけられるのが僧侶で、葬儀と告別式とが区別される場合、僧侶が退場してからが告別式になる。遺族や参列者は退場する導師を見送り、最後は布施を渡すのだ。

 あたかも葬式の主役は、故人や遺族ではなく、導師であるかのようにも見える。

 追善に意義を認める信仰を持たないのであれば、仏教式の葬式に意味を見出すことは難しい。戒名を授かることにも意味はないし、布施をすることにも意味はない。

 もう意味のないことを続ける必要がないと、多くの人が感じるようになってきたからこそ、葬式の簡略化は著しく進んだのだ。不況や感染症の流行などの外的な要因が簡略化を加速させた面はあっても、本質的には、仏教式の葬儀は不要だという感覚が広まってきたからだ。

 葬式の簡略化が進む前の時代には、身内だけで葬式をすると、後日、そのことを知った故人の友人や知人が自宅にやってきて、「せめて線香だけでもあげさせてくれ」「せめて墓参りだけはさせてくれ」とせがまれ、かえって面倒なことになるとも言われていた。

 だが、今や、葬式に招かれなかった友人や知人が、後日、線香をあげにきたり、墓参りにきたりすることはほとんどなくなった。

 葬式を身内だけで済ませたとすれば、それで文句が出ない時代になっている。少なくとも、都市部ではそれが当たり前になってきた。