平田は、1995年に公証人役場の事務長だった假谷清志を拉致・監禁した事件で逃走車両を運転していた以外にもいくつかの事件に関わっていたことが疑われ、指名手配された。が、元信者の女性に匿われるなどして16年以上逃亡したあげく、2011年末、自ら警察署に出頭している。

 最高裁で2016年に懲役9年が確定した。

最後は灰になるまで焼かれ…
骨壷に事件現場の小石を納めた

 假谷はオウム真理教とは現代社会における何だったかという命題そのものに関心はない。なぜ若者たちが麻原を信じてしまったのかについてもさほど関心がない。

「私の関心は、私の父が外形的に見て、“殺されたのか”、あるいは“死んだのか”ということなんです。そこがいちばん知りたかった。拉致されて上九一色村に連れていかれた父は、いったいどういう状態で死に至らしめられたのか。拉致から死ぬまでの間、どんなことをオウムの彼らはやったのか。

 ある程度のことは林郁夫(無期懲役)や井上嘉浩(死刑執行)の証言が合致しているのでわかるのです。つまり、父を拉致してクルマで連れていってチオペンタールという麻酔薬をずっと点滴し続けて、途中で半覚醒状態にして、叔母の居場所を聞き出すということを何回かやった。だけど、父は“知らない、何も知らない”と言い続けたんです。

 聞いても無駄だなという話になり、彼らはあきらめて、林郁夫から中川智正(死刑執行)にバトンタッチした。中川が父を監禁していた部屋を15分ほど出ている間に、戻ったら呼吸をしていなくて死んでいた、という流れなんです。つまり、薬物の過剰投与です」

 假谷清志の「管理」に関わったオウム幹部らは、自分たちに手抜かりはなかったと証言し、それ以外に事情を知る者はいない。つまり、假谷清志の最期を証言している者は一人もいないのだ。裁判であきらかになったことは、麻原が清志を殺害する命令を出していたということだ。

 結果、假谷清志は灰になるまで焼かれ、山梨県の本栖湖に遺棄された。假谷はその場所を訪れた際に小石を拾ってきて骨壺に納めた。遺灰が付着しているかもしれないと思ったからだ。もしかしたらまだ父親は生きているのでないかという気持ちもいまだ拭うことができない。平田の手紙には、湖で拾った石を假谷が骨壺に収めていることにも触れられていた。