連載作家はそれぞれ立場や契約条件、他に作品発表の場や収入源を持っているかといった生活上の事情が異なる。発言や行動の有無だけで倫理的な優劣を測られるべきではなく、沈黙やマンガワン連載継続も作家の正当な選択肢として認められるべきであろうと考える。

『堕天作戦』を愛読していたが
事件を知って動揺…

 栗田氏が山本章一のペンネームで連載していた『堕天作戦』を私は当時面白く読んでいた。「WEBマンガ総選挙2019」の第3位になった作品である。

 だから山本章一がその性加害を行った人物であると知って動揺した。事件の方は別口で知っていて、ひどく胸が悪くなり、また激しい憤りを覚えたからである。

 当時作品を面白いと感じたのは事実である。だが作者の作品外での行いは到底許容できるものではない。結果、作品を楽しんでいた自分までも揺らぐ感覚があった。

 知らないうちに嫌なものを飲み込んでしまったことにあとで気づくような不快感、無自覚のうちに非倫理的行為に加担してしまっていたのではないかという罪悪感を覚えたのである。

 しかし知らなかった・知る手段がなかった部分については自分に罪がないことを自認することがまず健全である。

 被害者の受けた深刻なダメージを思うと自分も何かしらの負い目を感じて少しでもバランスを取りたくなる気持ちがきざすのだが、「知らなかったのはもう仕方のなかったこと」としていったん保留し、「すべてを知ったあとにどのような考えを選択するか」によってアイデンティティを再確認するのが建設的であるように思う。

 ここまでの私の葛藤を次の3つの問いに分解してみる。「作品の価値は作者から独立しているか」「作品を消費することは加害者への加担か」「それらを踏まえたうえで、自分はどのような価値観の人間でありたいか」である。

 ロラン・バルト『作者の死』(1967)や、20世紀の英米の文学批評の方法「ニュー・クリティシズム(新批評)」において、作品は作者や社会的背景から独立して解釈されるべきと語られた。

 作品の自律性を積極的に確保すべきという考え方があったのである(むろん同時に、作家情報や作品の背景をもとに作品を解釈するコンテクスト重視の鑑賞法もあった)。