『堕天作戦』は独立して評価されるべきか
作者と丸ごとセットで考えるべきか
たとえばゴッホのひまわりを初めて見て「ただのひまわりにしてはなんだか激しいな」と思い、ゴッホの精神的苦悩を知った上でもう一度ヒマワリを見て理解を深めるという具合である。情報は作品体験を変えるのである。
近代美術に則れば作品の価値それ自体は作者から独立して評価されてもいい。しかし受け手は作者情報などのコンテクストを通して解釈する自由があり、作者情報が充実している現代では作品と作者は丸ごとセットで解釈されやすい環境にある。
過去に私が『堕天作戦』を面白いと感じたのはまぎれもない事実で、それこそが作品の価値ということなのであろう。ただ、現在はその価値を肯定する気にはなれない。情報は作品体験だけでなく、作品の価値をも変えうるのが現代である。
とはいえこのあたりは読み手それぞれの感性による領域で、上記はあくまで私の個人的な意見である。「それでも『堕天作戦』は作品として価値がある」という意見もあることにはまったく異論ない。
作品を消費する、マンガなら「読む」ことは作者への応援につながる。単行本を買えば印税が入り、配信作を読めばPVにより収入と評価が与えられ、それらを通じて作家の今後の活動をサポートしていくことができる。消費は作家を経済的に支援するのである。
しかしその支援によって成立する生活の中で作者が倫理にもとる行為を行っていれば、読者は間接的にその行為をもサポートしたという構図が成立する。読者は「作品を楽しみたかっただけなのに、加害行為を後押ししている・したのでは」という葛藤を抱えることになる。
加えて、作品が人気を保てば「あれだけのことをしても作品が面白ければ許される」という免罪符を作者に与えてしまうかもしれない。作品を消費することにはそうした不安がつきまとう。作者に更生の気配が見られない場合、読者の抱く危惧は一層強くなる。
一方で、作品支援をすることで損害賠償金の支払いの一助とすることもできる。今回栗田氏に課せられたのは1100万円。普通の金銭感覚からすれば大金だが、支払いが滞りなく行われれば、被害者へのわずかばかりの一助とできるかもしれない(被害者の受けた被害はいかにお金を積まれようと金銭では取り返しのつかないものであろうことは大前提である)。







