現代ではというと、作者がメディアで自作について語る機会があったり、作者自身がSNSで情報を発信することで、かつては見えにくかった作品の裏にある「作者の顔・体温」が非常に感じやすくなっているから、作品は作者に紐づけられて解釈される機会が多くなってきている。
「人を殺した画家」の作品が人気
作品は作者から独立している?
殺人歴のある画家・カラヴァッジョ(1571-1610)の例を見てみる。カラヴァッジョは現代でも評価が大変高く、国内でも人気がある。
いうまでもないことだが殺人は重大な罪である。だが彼の作品は人気があるし、カラバッジョについて語られる際、彼が犯した殺人は彼の作品の解釈をよりドラマチックに彩る一要素として扱われる節すらある。
作品を見る人はほぼ全員が殺人は罪と考えているはずなので、カラヴァッジョの作品は作者から独立して支持されているようでもあり、しかし殺人歴込みで解釈が進められることもあり、これらをあわせて鑑みるとカラヴァッジョにおいて受け手は作品と作者を許容していることがわかる。
受け手の許容範囲は、受け手と作者の距離がどれくらい離れているかに由来するのではないか。
カラヴァッジョは500年近く昔の人であり時間的に距離がある。当時彼によって「殺人が行われた」と聞かされても、古い映画のワンシーンを語られているようでいまいち現実感がない。近代美術などの、現代とやや隔たった時代の作品も、受け手との距離が少しあるから許容が成立しやすい。
では『堕天作戦』はどうか。SNSを通じて作者の体温がわかり、加害行為は生々しく、さらに被害者の受けた傷も現在進行形である。作者は、受け手にとって相当現実感を伴った距離に存在している。この距離の近さ・想像のしやすさが許容のしがたさを上げている。
『堕天作戦』を、作者の加害行為を知った後に一部読んでみたのだが、当時初見で感じていたあのワクワクする気持ちはなく、「この原稿を書くかたわら裏で陰惨な加害を行っていたのか」と暗い気持ちがつきまとって作品に集中できなかった。
美術館で作品を鑑賞する方法のひとつに、「予備知識なしで作品を見て初見の純粋な感想を楽しみ、次にキャプションを見てその情報をもとに作品を再解釈する」というやり方がある。







