キリスト教民主同盟(CDU)の政治家、キージンガーはヒトラーが政権を取った1933年にナチ党に加わった。その後、積極的には活動していなかったとされるが、第二次世界大戦中の1940年からは外務省放送局に勤務。ナチのプロパガンダ普及に一役買った人物だった。

 ベアテはあぜんとしたが、すぐに決意した。

「1人のドイツ人として、抗議するのが義務だと思いました。私はすでに過去に何があったかを知っている人間でした」。

東ドイツ当局がナチ追跡を
積極サポートした事情

 かつてセルジュから聞かされた、ゾフィー・ショル(編集部注/ナチ体制下の1943年、ナチへの抵抗を訴えるビラを配布したミュンヘン大学の学生。兄とともに逮捕され処刑された)らの話も背中を押した。

 ベアテは当時、西ドイツとフランスの若者の交流を促進するために設置された事務所で働いていた。左派系の新聞に、キージンガーの就任を批判する記事を発表して間もなく、解雇された。記事が問題視されたと考えたベアテは、セルジュと相談し、解雇不当の訴えを裁判所に持ち込むことを決める。セルジュは「家族が不当な目にあっているのに、黙っているのはおかしい。サポートするのが当然だと考えた」と振り返る。

 セルジュのサポートは、法廷闘争にとどまらなかった。ベアテの「反キージンガーキャンペーン」も強力に後押しした。東ドイツに行き、キージンガーに関する資料を当局から見せてもらった。東ドイツにとっては、西を攻撃する材料が増えるのは好都合だった。

 とはいえ、東に取り込まれたり、利用されたりする恐れはなかったのだろうか。

 セルジュは「我々と東ドイツは同じ意見は持っていなかったが、同じ敵は持っていたということです」と説明した。

 ベアテはキージンガーの件で、サイモン・ヴィーゼンタール(編集部注/オーストリア生まれのユダヤ人でホロコースト生還者。ユダヤ人迫害に関わった多くのドイツ人を追い続けた、元祖ナチ・ハンター)とも相談したという。「でも、彼にとって、キージンガーは『案件』ではなかったのです」

 2人は資料をもとに、さらに批判を強める冊子を自費出版した。