警備の網をかい潜って
元ナチの首相に平手打ち
ベアテはさらに突き進んだ。しばらく後、多くの若者たちを前にした集会で宣言した。
「公の場で首相を平手打ちします」。
疑いと熱狂の声が渦巻いたというが、そこにいた者たちの中で、何人が本気でそれを受け取っただろうか。
だが、やってのけた。
1968年11月、CDUは西ベルリンで党大会を開いた。ベアテは知り合いのカメラマンの助けを借りて会場に入った。キージンガーは党幹部らが並ぶ長いテーブルの中央辺りに座っていた。テーブルのそばには警備員が立っていた。ノートとペンを手に、取材している風を装いながら、近づくベアテ。だが、今回はヤジを飛ばすだけではない。手の届く位置まで行かなければならなかった。
ベアテは、その長いテーブルの反対側に、知人を見つけたふりをした。警備員に何度か頼むと、渋々とだが、ベアテを行かせた。政治家たちが並ぶテーブルの後ろを歩き、キージンガーの背後に立てた。
「ナチ!ナチ!」。
叫びながら、キージンガーに平手打ちをした。
すぐに取り押さえられ、騒然とした会場から連れ出されたが、高揚感に包まれていた。会場に、武装した護衛官が配置されており、うち1人は銃をつかんでいたことを知ったのは、しばらくたってからだったという。
この年はアメリカでの出来事とはいえ、4月にマーチン・ルーサー・キングが暗殺され、6月にはロバート・ケネディが射殺されていた。命がけの行動だった。
一国の首相が平手打ちを食らった衝撃は世界を駆け巡った。
ベアテとセルジュはしかし、その衝撃を単発で終わらせないことを決めていた。ベアテはキージンガーが姿を現す場所のスケジュールをおさえ、反キージンガーキャンペーンを続けた。ベアテの行動に呼応するように、会場には左派を中心とする若者らのブーイングが響くようになった。
ひとつの平手打ちが
ドイツの社会を変えた
翌1969年、総選挙が行われた。
CDUは第一党にとどまったが、大きく議席を減らし、第二党の社会民主党(SPD)と第三党の自由民主党(FDP)が政権を樹立。西ドイツ成立後、長く政権の座にあったCDUは野党に転落した。
キージンガーの次の首相に就いたのは、SPDのブラント。反ナチの活動家で、第二次世界大戦中の亡命先では、アウシュヴィッツ裁判を実現させた検事長のバウアーとともに過ごした経験があった。ニュルンベルク裁判をジャーナリストとして取材してもいた。キージンガー内閣で副首相兼外相として経験を積んだブラントに率いられた新政権は「Mehr Demokratie wagen(もっと民主主義を)」をスローガンに掲げた。
『終章ナチ・ハンター』(中川竜児、朝日新聞出版)
ブラントに期待していたベアテにとっては、望んでいた結果だった。ブラントは1970年、ワルシャワのゲットーの記念碑前でひざまずくという象徴的な行動をとり、「東方外交」をさらに推し進めることになる。ポーランドとの国交樹立もブラントの功績の1つだ。
ベアテとセルジュの事務所には、平手打ちを報じた複数の新聞が残っていた。ベアテの写真の方が大きいものが多く、「彼女は首相を平手打ちした」といった見出しだ。顔を手で覆ったり、傷の具合を診てもらったりしているキージンガーの写真は、この後の権威の失墜を予告するようでもある。
ベアテは「事件」について、こう語った。
「最高の出来事だった。元ナチ党員が国の顔になることに我慢がならないドイツ人がいるということを、世界中に知らせることができた。その後に起こったことは全て、ドイツの政治や社会を変えていったのだから」
歴史を作った手を、改めて見せてもらった。触ると意外なほど、柔らかかった。
2人はハンターとしての活動をさらに活発にしていく。その路線は決して「ソフト」ではなかった。







