鉄道のまち大井町の歴史は
「大井工場」から始まった
JR東日本は高輪ゲートウェイシティ(1~4街区)の安定稼働時の営業収益を570億円と見込んでいる。最初の1年間は計画達成に向けて順調な船出だったのか聞くと、概ね計画通りに推移しているという。
高輪ゲートウェイ駅の1日あたり乗車人員も、昨年3月のまちびらき前後で2万人から4万人へ、ニュウマン高輪・JWマリオット・ホテル東京が開業した昨年秋以降は6万人へと順調に増加しており、今後は10万人を目指す。現状の利用者総数の割合は3~4割がオフィスワーカー、約3割が周辺地域在住者、約3割が週末中心のお出かけ客だという。
そして、JR東日本が推進するのは、高輪ゲートウェイシティを中心とした「品川広域圏」のまちづくりだ。開業済みの「WATERS takeshiba」「BLUE FRONT SHIBAURA」に加え、「浜町町二丁目4地区A街区開発(2029年度開業予定)」「田町駅西口駅前開発(2028年度末一部開業予定)」「品川駅街区地区開発計画・北街区(2030年代半ば開業予定)」「品川駅北口改良・駅ビル整備(2030年度開業予定)」など数多くの開発案件が進行しており、2034年頃までに年間1000億円の営業収益を目指す。そして、そのひとつに名を連ねるのが今回、同時開業した「大井町トラックス」だ。
大井町トラックスの「TRACKS PARK」から「ビジネスタワー」を望む(内覧会にて筆者撮影)
大井町駅の西側、山手線の車両基地である東京総合車両センターに隣接する用地は元々、JR東日本の「広町社宅」があった場所だった。鉄道のまち大井町の歴史は、大正初期に車両修繕・新造を行う「大井工場」が置かれたことに始まった。
1960年代に入って首都圏の輸送力を大幅に増強し、車両数が増えると車庫の不足が顕著になる。山手線の車両はそれまで、京浜東北線の車庫を一部間借りする形で分散配置されていたが、新車両基地に集約することになり、白羽の矢が立ったのが大井町だった。
大井町トラックスに隣接する東京総合車両センター(筆者撮影)
大井工場は当時、大正時代から拡張を重ねてきた施設の近代化工事が予定されており、捻出したスペースに地上と地下の2階建て車庫を新設することにしたのである。そして、車庫建設にあわせて構想されたのが広町社宅だった。
広町社宅を生み出したのは新幹線の父と呼ばれる島秀雄だった。島はある日、国鉄の建築技師・馬場知己に「なぜ鉄道の建築屋は4階以上のアパートを作らないのか?」と聞いた。
馬場はかねて、首都圏の人口増加は郊外の拡大ではなく都心の高層化で吸収すべきと考えており、実際に高層社宅を検討したことがあったが、周辺環境の兼ね合いで認可が下りず、実現できなかったと返答した。
すると島は席を立って大井工場の図面を持ってくると、赤鉛筆で南側3分の1に線を引いて「馬場さん、南側は君にあげましょう。ここに理想とする高層アパートを建ててください」と言ったのである。こうして1966年、馬場の理念を体現する12階建て高層アパート6棟が完成した。
国鉄職員と家族約2000人が入居し、国鉄民営化後はJR東日本に引き継がれた。だが、時間の流れには逆らえず、耐震基準への不適合により解体が決定し、築半世紀を超えた2017年に全棟が解体された。時を同じくして老朽化した品川区庁舎の建て替えが浮上したため、一体的な再開発へと発展した。これが整備までの経緯だ。







