ジャーナリストがメディアについて語るとき、しばしば持ち出すのが「公共圏」という概念だ。これは、個人の私的な領域を超えた共通の関心事項について、言論や意見がゆきかう社会的な共通空間のことだ(ドイツの哲学者J.ハーバーマスが提唱した概念。西欧の初期市民社会において、コーヒーハウス、カフェやサロン、あるいは読書会などを介して、「文芸的公共圏」が形成された。それが、公権力批判機能を持つ新聞や雑誌、あるいは政治的結社などの「政治的公共圏」に発展した、とされる)。

 大メディアにいる人たちが言うには、新聞やテレビは公共圏として重要な責務を負っており、マスメディアの役割は「公衆の番犬」(国家を監視する機能)だ(彼らがこう言うとき、「インターネットは公共圏ではない」という暗黙の了解があるように思われる。なお、この点はもう一度取り上げる)。

 確かに、公共圏の存在と維持は、重要なことだ。そして、プロのジャーナリストの大きな役割が「公衆の番犬」であることも間違いない。

 しかし、そのことと、いまの日本の報道機関が現実にその役割を果たしているかどうかは、別問題である。

 とくに経済政策について、日本の巨大メディアが番犬機能を果たしているとは、到底思えない。むしろ、政府のプロパガンダの伝達役でしかないことが多い。政府の宣伝文句に何の疑いも持たず、受け売りで報道している。これでは、番犬とはいえない。このことこそが問題だと、私は思う。

 「間違いだらけの政策報道」というようなキャッチフレーズを私は使いたくないのだが、経済政策に関して通常報道されていることが「間違いだらけ」なのは、事実だ。これは、「週刊ダイヤモンド」の連載「超整理日記」で何度も述べていることなのだが、いまいちど簡単にまとめておけば、つぎのとおりだ。

間違いに満ちた
常識的報道

(1)食料自給率の引上げが必要?

 まず、通常使われる「カロリーベース自給率」という指標に問題がある(「自給率が40%を下回った」というのは、この指標で見た場合である)。たとえば、鶏卵の96%は国内で生産されるが、飼料を輸入しているために自給率は5%とカウントされている(食生活情報サービスセンターのウェブサイトにある「食料自給率とは何ですか」を参照のこと)。生産額ベースでの日本の自給率は、現在70%程度である。

 自給率の引上げだけが目的なら、パン食をやめて米だけを食べ、飼料を国産すればよい。しかし、そうすれば、食生活は貧しくなり、肉や牛乳のコストは著しく上がる。自給率が低いのは、日本人が豊かな食生活を実現している証拠である。

 穀物価格の高騰が続くと、「食べものが手に入らなくなる」と脅す人がいる。しかし、現在の主要な穀物輸出国では、自由主義経済体制の下で農民がコマーシャルベースで生産を行なっている。だから、仮に輸出国の政府が戦略的輸出制限を長期にわたって続ければ、困るのは輸出国の農民である。