従来、この文書は信長が将軍から権力を奪うためのものだと解釈されてきました。しかし近年では、側近による恣意的な政治を排し、政務の一元化を図る制度改革として評価される傾向にあります。

 実際、当時の史料には、信長側の奉行人(羽柴秀吉・明智光秀ら)の裁定と、義昭側近の決定が矛盾し、所領配分や訴訟結果が混乱していた状況が確認されます。信長は「五カ条の条書」によってそれらの改善を図ったと考えられるのです。

 しかしこの「五カ条の条書」も、義昭が従った様子はほとんど見られず、信長の政治改革は思うように進みませんでした。

義昭が信長に従えなかった理由

 ただ、義昭がこれらの改革に従わなかった背景には、義昭なりの事情もありました。

 室町将軍はもともと独自の軍事力をほとんど持たず、御供衆などの家臣団に依存する体制でした。しかも義昭本人も、将軍に就任するまでに一色藤長や三淵藤英といった側近に多大な恩を受けており、彼らを無視して政治を行うことはきわめて難しかったのです。

 加えて、将軍権限を制限する新体制に対する心理的抵抗もありました。そのため義昭は従来通り側近を通じた政治運営を維持し、独自に御内書を発給するなど、信長から見れば勝手な行動を取り続けたのです。

足利義昭(左)と明智光秀(演:要 潤)(C)足利義昭(左)と明智光秀(演:要 潤) (C)NHK

「十七箇条意見書」が引いた、信長と義昭の最後の一線

 こうした政治姿勢の相違は、信長と義昭の関係を急速に悪化させていきました。信長が目指したのは法規と制度に基づく統治でしたが、義昭は従来の人的関係に依存する政治を維持しようとしました。

 その対立は元亀3年(1572)の「十七箇条意見書」によって決定的となり、最終的に義昭は信長によって京都から追放されることになります。