分岐点は劇的ではない
決算前の会議室を思い浮かべてほしい。資料はそろっている。議論もされている。誰も取り乱してはいない。
だが、空気だけが妙に重い。「このままだと、未達です」。誰もが知っていたことが、改めて言葉になる。新しい情報は何もない。ただ、数字が足りないという事実だけが、会議室の中央に置かれる。
しばし沈黙が支配した後、上司が静かに言う。「少し、調整しよう」。このとき、まだ誰も「粉飾をしよう」とは言っていない。この場の誰一人として、自分が不正をする人間だとも思っていない。にもかかわらず、後から振り返れば、この一言の時点で方向はすでに決まっていたのだ。
人は崖から転げ落ちるように不正に手を染めはしない。小さな説明を一つずつ積み重ねるうち、気づかず別の場所へ移っていく。道徳的離脱とは、この「気づかない移動」の過程そのものである。
第1段階 目的の置き換え
最初に起きるのは、行為の目的の置き換えである。「ここで数字を落とせば銀行が騒ぐ。社員の雇用も危うくなる。取引先にも迷惑がかかる」。こうした言葉が出始めたとき、議論の軸はすでにずれている。不正かどうかではなく、守るかどうかの話になるのだ。やってはいけないことが、やらなければならないことへと姿を変える。
しかもこの変化はきわめて道徳的に見える。自分のためではない、会社のためだ、仲間のためだ。そう思った瞬間、人は最初の一歩を踏み出す。厄介なのは、逸脱が欲望ではなく責任感の言葉をまとって始まることである。
第2段階 言葉の置き換え
次に起きるのは、言葉の浄化である。「粉飾」とは言わない。「売り上げの時期調整」「在庫評価の見直し」「一時的なテクニカル対応」と言う。言葉が変わると、思考が変わる。違法行為は業務上の工夫に見え始める。誰も露骨に嘘をついているつもりはない。だが、本当のことも言っていない。こうして「自分たちは悪いことをしている」という認識が、会議室の中から静かに消えていく。
第3段階 基準の置き換え
それでも、どこかに引っかかりは残る。だが、その引っかかりも比較によってかき消される。「横領ではない」「私腹を肥やしているわけでもない」「世の中にはもっとひどい不正がある」。ここで基準は、「悪いかどうか」から「どれくらい悪いか」へと移る。絶対的な善悪ではなく「相対的にマシ」かどうかで自分たちを測り始め、自分たちはまだそこまでではない、という結論に落ち着く。こうして最後のブレーキも弱まっていく。







