これは、釈迦が亡くなった後、500年単位で時代がどのように推移していくのかを説いたもので、問題は最後の500年である。「闘諍言訟して白法隠没せん」とは、争い事が多発して、釈迦の説いた法による利益がまったく消えてしまうことを意味する。
末法思想は日本で広がり
やがて浄土教信仰へと変わる
ただ、インドにおいては、末法思想はそれほど広がらなかった。
釈迦の教えが正しく実践される「正法」、それが形式的になる「像法」の時代の後に、教えの効力が消滅する「末法」の時代が訪れるという考え方は、「三時説」と呼ばれる。インドでは正法と像法という言葉は使われたが、末法は使われなかった。インドでは輪廻(りんね)転生の考えが支配的であり現世における時代の変化には大きな関心が払われなかったからである。
末法思想が盛んになったのは、インドから仏法を取り入れた中国においてだった。中国六朝時代の僧で、天台智顗の師となった南岳慧思(515~577年)は、自分たちはすでに末法の時代に生きているという認識を示した。
日本にも、中国で発展した末法思想が取り入れられる。奈良時代には、すでにこの思想が現れており、正法500年、像法1000年という説が唱えられた。平安時代以降になると、中国の僧侶、吉蔵が唱えた正法1000年、像法1000年説が有力になっていく。そして、末法に入るのは、永承7(1052)年とされる。この年が、仏教公伝から500年だったことが、そこに影響した。
末法の時代に入った永承7年に建立されたのが、京都宇治の平等院である。建立したのは藤原道長の子、頼通であった。そこには鳳凰堂が設けられ、全体が浄土を模した浄土式庭園になっている。それも、末法の時代においては、死後、浄土に生まれ変わるしかないと考えられたからである。
こうして平安時代には、末法の世が近づいているという危機意識が高まる中で、浄土教信仰が社会に広く浸透していくことになる。
浄土教信仰を広めた
空也と源信
それよりも前、巷で最初に浄土教信仰を広めたのが空也(903?~972年)であった。







