こうした地獄の描写は、後に『地獄草紙』などにおいて絵画として表現されるようになっていく。そうしたものでは、どの地獄であろうと、徹底して陰惨で残虐なものとして描かれている。しかも、地獄の亡者になれば、考えられないほど長い時間そこに落とされたままで、いっこうに救われることがないのだ。なんとも恐ろしい描かれ方である。

 源信が、地獄を徹底して凄惨(せいさん)なものとして描いたのは、それを読む者に地獄の恐ろしさを強く印象づけ、ひいてはそこから逃れるために極楽往生への信仰を実践するよう促すためだった。

 これは、他の宗教における天国についても言えることで、理想の世界としてあの世を描き出すことはかえって難しい。それは実際に試みてみればわかる。それに比較すれば、地獄の描写はたやすい。いくらでも恐ろしく描けるからだ。

 源信は、それを徹底したのだ。源信の『往生要集』は、その点で、その後の日本人の地獄についてのとらえ方に決定的な影響を与えた。そして、浄土教信仰、念仏信仰を日本の社会に浸透させていくことに大きく貢献した。

極楽往生するための
現世の行いとは?

 もう1つ源信が試みたことで、浄土教信仰の形成に大きな意義を有したのは、極楽往生するための念仏の結社を立ちあげたことだった。それは、「二十五三昧会」と名付けられた。

 源信のほかに、やがて極楽往生した高僧たちの伝記『日本往生極楽記』を書くことになる公家で文人の慶慈保胤などもそこに加わっていた。彼らは、死ぬための準備をする結社を組織した。

 では、具体的にどうしたら往生がかなうのだろうか。その方法について、源信と保胤は、それぞれが『起請八箇条』と『横川首楞厳院二十五三昧起請』という文書に記している。

『大乗仏教はなぜ日本人を魅了したのか』書影大乗仏教はなぜ日本人を魅了したのか』(島田裕巳、扶桑社)

 それによれば、結社の仲間は毎月15日に集まって、ひたすら念仏を唱える「不断念仏」を実践する。メンバーのなかに重い病にかかった者が出れば、「往生院」と呼ばれる建物を建て、そこに病人を移す。仲間がその看病にあたることになるが、そのあいだも常に念仏を唱えている。亡くなった者が出れば、景色の良いところに「安養廟」を作り、そこに卒塔婆(そとば)を建てて墓所とする。

 まさにこの結社は、現代のホスピスの役割を果たしたのだった。

 慶慈保胤による『日本往生極楽記』は、寛和年間(985~987年)に成立したと考えられるが、それは極楽往生を果たした人間たちの伝記だった。ここでは聖徳太子が筆頭にあげられ、僧侶や一般の庶民など45人の往生伝の記録が集められていた。これはその後の往生伝のモデルとなり、大江匡房による『続本朝往生伝』や三善為康による『拾遺往生伝』などが編纂された。