空也は、各地をまわって念仏信仰を伝えていった遊行僧である。この空也を描いたものとして、京都の六波羅蜜寺に伝えられている立像がある。これは、空也が亡くなってから250年後、鎌倉時代に作られたもので、空也はその口から6体の小さな阿弥陀仏を吐いている。6体であるのは、それが「南無阿弥陀仏」の六字の名号を意味するからである。

 空也の生まれははっきりしないのだが、出家した後には、播磨国(今の兵庫県)の峯合寺に籠り、そこで一切経(大蔵経)を学んだとされる。30代なかばで平安京にたどり着き、そこで活動を展開する。都の人々に念仏を唱えることを勧め、その結果、空也はやがて「市聖」とか「阿弥陀聖」と呼ばれるようになる。

 一切経を学んだ空也はただの遊行僧にとどまらなかった。その後、比叡山延暦寺で得度授戒し、「光勝」という法号を授かる。それ以降も活発な活動を展開し、京都の仏教界をリードする立場にまでのぼりつめていった。

 空也が亡くなった後、浄土教信仰において極めて重要な役割を果たすことになったのが源信(942~1017年)である。

 源信は、大和国(現奈良県)葛城郡当麻郷に生まれたが、父親の卜部正親を7歳の時に亡くす。9歳で比叡山に登って、比叡山中興の祖とされる良源に師事し、横川の恵心院で修行と著述に従事した。そのため、「横川僧都」、「恵心僧都」とも呼ばれ、『源氏物語』に登場する横川の僧都のモデルともなった。

『往生要集』に記された
恐ろしい地獄の描写

 源信は、空也が亡くなってから10年ほどが経った永観3・寛和元(985)年に、極楽往生を果たすためのマニュアルとも言うべき『往生要集』を著している。

『往生要集』と題されている以上、そこには、極楽浄土がいったいいかなる世界なのか、そこに往生するにはどういう過程を経ればよいのかが詳しく述べられている。

 だが、源信は、まず最初に「厭離穢土(おんりえど)」と称して、地獄のありさまについて、極楽以上に詳細に説明を加えている。地獄は、等活地獄からはじまって、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、阿鼻地獄へと深まっていく。