ハリウッドの撮影所を持つのが盛田の長年の夢で、盛田が呟いた“残念だ”の一言で決定が覆され、売上約3兆円の巨大企業が動いている。これは絶対的な存在である盛田、そう、“すべては盛田会長のため”とする意識がそうさせたのである。国際的な、世界で最も知られた日本企業の内実は、カリスマとして存在する“家長”の盛田への慮りで成り立っていた。
ソニーの国際化を見据えた盛田は
家族でニューヨークへ移住した
“カリスマ経営者”という表現は余りに陳腐に過ぎるが、盛田昭夫という人物をどう表現したらよいのか。その適当な言葉が思い浮かばないが、盛田は戦後日本が生んだ図抜けたマーケティング能力を持つ、稀代の営業マンだった。後にも先にも盛田ほど、日米を股にかけた営業マンはいないだろう。
戦後史に燦然と太陽の如くに輝く盛田昭夫。その伝説の始まりは、1963年の家族を伴っての渡米から始まる。子ども3人、妻・良子とともに盛田が、プロペラ機で米国に向かったのはその年の6月。米国で生活をすることこそ、米国を知る一番の近道と盛田は考えていた。
拠点として選んだのは、ニューヨークのマンハッタン5番街。ニューヨークの“顔”とも言うべき高級ブランドと観光スポットが立ち並ぶ華やかな場所に、家賃が1200ドル(当時のレートで約43万円)、部屋が12部屋ある超高級アパートメントを借りた。
当時、東京の大卒初任給が1万5000円前後だった。これに生活費、子どもの教育費などを入れると、盛田親子は月々80万円近いカネを使っていた。
1960年代はソニーにとって、本格的な国際化の幕開けの時代でもあったし、またテレビに参入したように、商品も多様化した時代でもあった。当然のように需要は常にあった。従来ならば、井深の頭の中の構想を資金調達をし、商品として具現化させるのが盛田の役回りだった。いわば、車の両輪の一つが長期不在になるのだ、普通の会社ならば断じて許されることでなかった。が、ソニーは、井深は許した。







